礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ジャーナリズムは、内側からのタレコミで崩される

2015-11-05 05:06:14 | コラムと名言

◎ジャーナリズムは、内側からのタレコミで崩される

 日本ジャーナリスト連盟編『言論弾圧史』(銀杏書房、一九四九)を紹介しているところだが、最近、読んだ半藤一利さんと保阪正康さんの共著『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(東洋経済新報社、二〇一三)に、『言論弾圧史』の内容と重なるところがあったので、本日は、この共著(対談記録)を紹介させていただきたい。
 紹介するのは、第四章「国家の宣伝要因という役割」の「ブラックリストで総合雑誌が崩されていく」の節である(一四三~一四六ページ)。

 ブラックリストで総合雑誌が崩されていく
保阪 『改造』とか『中央公論』などが先頭を走っていて、俺たちが天下をリードするんだと言っていた人たちに、だんだんと風当たりが強くなっていきますね。二・二六事件の世相にも巻き込まれていくわけですが……。それでも『中央公論』なんか頑張っています。横浜事件でやられてしまいますけれども。昭和八年〔一九三三〕から一〇年〔一九三五〕頃の雑誌であのときの突っ張り方を見ても、軍を批判したりしていて、結構筋を通しているんですよね。
半藤 頑張っていますよ。ジャーナリズム史という見方で言えば、昭和一四年〔一九三九〕頃まではかろうじて雑誌ジャーナリズムは抵抗しています。繰り返しますが、我が『文藝春秋』でさえ抵抗していますからね。
保阪 二・二六事件の後くらいからは、官憲が会社に乗り込んできて、「何であんな奴らを使うんだ」とか、「こいつは危ないから使うな」と言ってきたんですよね。
半藤 さっきも言ったように、あるときから、この連中を使うべからず、という指令が内務省から来るんです。それが強制的になるのは昭和一四年です。リベラリストにまで当局の圧力がかかってきた。それからは『改造』だろうが『中央公論』だろうが、いわゆる雑誌ジャーナリズムは全滅と言つていいことになる。
保阪 その時代については戦後になってから論争があるらしいんです。この者、書かせるべからずという、あのときのリストは、実は提供した奴がいる。平野謙〈ケン〉があいつじゃないかと疑ったのが中河与一〈ヨイチ〉。当時のリストを見た人によると、名前がずらっと並んでいて、○だと中間派、×だと絶対に赤化〈セキカ〉しているという意味で、露骨に印がついていたらしい。中島健蔵もそういうリストがあったと書いている。
半藤 リストを誰が作ったのかについては、中河与一だと言われたりもしますが、実は平野謙も怪しいらしい、なんていう噂もある。しかし、ハッキリはしていない。
保阪 戦後になって、誰にどんな印がついていたのかわかったんですかね。
半藤 さあ、見たという人はいないんじゃないでしょうか。
保阪 見たという人の伝聞は伝わっていますよね。○がついていたとか。
半藤 口伝〈クデン〉されてはいました。私も『文藝春秋七十年史』なんかで、そのことについて触れたことがあります。明らかにそういうリストはあるようなんです。氏名の上に○や×のついたやつが。ただ、確かに現物を見たと証明できる人はいないんじゃないかな。ましてや提供者においてをや。
保阪 内務省とか、戦後に検閲の係だった人が書いた本にもリストのことは出ているんですね。誰が作ったにしても、すごいことをやるもんだと思いますよ。
半藤 私的中傷なんていうものじゃないですものね。私が調べた範囲だと、雑誌は昭和一三年〔一九三八〕くらいまではなんとか頑張っていたんですが、東大経済学部教授に対する平賀粛学の事件を経て、誰かが官憲に内通しだした。それで言論界というのは軒並みやられちゃった、という裏の歴史があった。これは間違いないですね。
保阪 ジャーナリズムを崩すには、一つには内側からのタレコミがある。
半藤 そういうものですよ。
保阪 僕はいまのジャーナリズムも、当時に似ている感じがしてイヤなんですよ。その品のなさに腹が立つ。ちょっと常識の問題としておかしいですよね。
半藤 現在のジャーナリズムは確かにおかしいですね。裏の裏の、そのまた裏があるようでね。
 当時の出版社についてさらに言えば、会社そのものがおかしくなり始めたらしい。文藝春秋の例で言えば、会社の中で禊〈ミソギ〉が始まった。朝、会社に来て、仰々〈ギョウギョウ〉しい挨拶やお祈りをしてからじゃないと仕事をしない奴が出たり、「おう、自由主義者が来たか」と社内でやったり。どんどんと内部の雰囲気が険悪になっていく。どうにもならないと言って、当時専務だった佐佐木茂索〈モサク〉という人が、「俺はもうこの会社を諦めた」と隠遁して放り投げちゃうなんてことになったというんです。佐佐木さんは戦後また復活して会社を再興するんですが。
保阪 『改造』とか『中央公論』にも似たようなことがあったんでしょうね。
半藤 あったのではないですか。横浜事件なんて明らかに内部告発からですよ。そうでなきゃ、あんなにうまくいかない。
保阪 うまく仕組まれていますよね。一泊旅行した写真まであった。
半藤 あんなことは本来、有り得ないですね。戦争中はもちろん、昭和一五年〔一九四〇〕、一六年〔一九四一〕あたりではもう追従〈ツイショウ〉ばかりでジャーナリズムではありません。
保阪 国家の宣伝要員、あるいは国家の言論官僚と化していく。
半藤 そうです。自分で「我々は宣伝戦の弾丸である」と言っているんです。

 文中、「横浜事件」とは、一九四三年(昭和一八)に、中央公論社、改造社、東洋経済新報社の編集者など、六〇名以上が、治安維持法違反で逮捕された事件のことである。
 半藤氏が上記で、「横浜事件なんて明らかに内部告発からですよ。」(下線)と言っている。その真偽は明らかでないが、ありえないことではない。というのは、昨日、紹介した畑中繁雄さんの文章に、鈴木庫三情報官が、中央公論社の嶋中雄作社長に対して発した、次のような発言が紹介されていたからである。

「……君らは社内の後輩に向つても、いつも自由主義的方針を宣伝しているではないか。隠しても駄目だ、君らの足下の社員からそういう投書が自分の許に来ているのだ。そういう中央公論社は、たゞいまからでもぶつつぶしてみせる!」

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1 コメント

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中山太郎翁 (パスオ)
2015-11-05 22:42:24
礫川先生こんばんは。
もう3年も前の記事ですが、随分前に私が編集したwikipediaの中山太郎翁の内容についての論評を偶然見つけて正直驚いております。
色々と申し上げたいこともあるのですが、とりあげて頂いただけでも感謝してます。結構高い批評社の本も買って読んでたんですけどね(笑…)
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