礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本の新聞統制はナチ政府に指導された(鈴木東民)

2015-11-01 08:08:24 | コラムと名言

◎日本の新聞統制はナチ政府に指導された(鈴木東民)

 昨日の続きである。昨日、日本ジャーナリスト連盟編『言論弾圧史』(銀杏書房、一九四九)の最終章「第一・第二大戦と新聞ジャーナリズム」(執筆・鈴木東民)から、「第二次大戦におけるナチスの新聞弾圧」の節を紹介した。本日は、それに続く「日本における新聞統制」の節を紹介する。

 日本における新聞統制
 日本の戦時の新聞統制はこのドイツのグラィヒシャルトウング〔統制〕を手本として、完全なこれの模倣において行われた。日本の新聞統制は満洲事変の起つた当時からすでに構想されていたもので、最初に着手されたのは通信社の統制である。満洲事変の起るまで日本の通信社は連合通信と日本電報通信との二つであつた。前者はアメリカのAP、後者はUPと通信の特約をしていたが、実質的にはいすれもアメリカ通信社の日本におけるエジェントであつた。そこで日本の帝国主義者たちはこの二つの通信社を合併することによつて強力な通信機関をつくり、従来、外国の影響下にあつた日本の通信を世界各国の新聞に対して影響力をもちうるような積極性をもつた通信社とすることをもくろんだ。この目的は達せられなかつたが、通信社の合同だけは実現され、同盟通信社が組織された。太平洋戦争が始まるや、軍部は日本の全新聞を一つの親会社のもとに統合する案をたてた。これはいうまでもなくナチ政府の新聞統制を真似たものであつた。それは新聞社側の反対もあり、その他の困難な事情のため当初の計画通りには実現されなかつたが、中小の新聞企業は軍閥政府の権力によつて潰され、大企業の新聞に吸収された。また新聞がその編集の面でも、軍部の強力な統制下におかれたことは周知の通りである。特にその編集は完全な統制をうけ、記事から論説にいたるまで、完全に軍部の代弁者となつた。
 戦局の発展に関する楽観的報道、国民に封する欺瞞、国民や軍隊の間における野蛮な敵愾心の高揚など、第一次大戦におけるドイツの新聞そのまゝであつた。
 日本の新聞統制はナチ政府の指導のもとになされた。東京のドイツ大使は日本の政治、外交に関してある場合は首相以上の権力を振うことができた。大使館の情報部長は日本の新聞政策の最高の権力者であつた。
 日本の新聞経営者は独〔ドイツ〕大使館と軍部との歓心を買い、その寵児たらんがためにお互に競争した。各新聞の予算には独大使館員と新聞関係者に対する接待費や賄賂のために莫大な金額が計上された。帝国主義者の手先となつた新聞は、文化の破壊、侵略と殺戮との宣伝とアジテエションに奉仕した。
 ファシズムの言論統制の目的はその侵略主義に新聞の一切の機能を奉仕させることにあつたが、この統制に対して決定的な反対の態度をとつたものは共産主義の新聞雑誌と極めて少数の平和主義の新聞雑誌とであつた。社会民主党の諸新聞はこの党の伝統的政策を反映して最後まで日和見的態度をとつていたが、ついにファシズムのために弾圧をうけなければならなかつた。
 しかし商業新聞は殆ど例外なくファシズムの統制に服し、その要求のために奉仕した。もつともその統制に当つて、商業新聞の間からいくらかの反抗が起らなかつたわけではない。けれどもその反抗はファシズムそのものや帝国主義、侵略主義の政策に対してなされたものではなかつた。政策遂行上の技術的な問題とか、若干の派生的な問題について軍部と一部資本家との間に意見の相違を来したことがあり、そうした場合に商業新聞及資本家側の立場を支持しようとしたのである。しかし満洲への進出、中国大陸への侵略、濠洲〔オーストラリア〕をも含む太平洋の支配権の確立、ソ連政権の打倒という日本帝国主義の基本的な政策に関しては軍部と新聞とば完全に一致していたのである。
 元朝日新聞の重役だつた鈴木文史朗氏は本年(一九四八年)二月発行の中央公論誌上に、「大新聞論」というものを書き、その中で軍部の全国新聞統合案に対し、「生命にかけても反対する」と当時の読売新聞社長正力松太郎氏が反対したという事実を指摘し、商業新聞の経営者必ずしも軍部の政策に賛成だつたわけではないとの意味のことを述べているが、正力氏が統制に反対したのは政策の面においてではなく、経営上の利害関係からであつた。読売新聞はいわゆる大新聞としての経歴が短かいので、その実績は「朝日」「毎日」よりも低く評価された。そのため全国的新聞統合が行われれば、あらゆる点で「朝日」「毎日」より不利な立場に立たされるばかりでなく、あるいは潰されるかもわからぬという不安があつた。正力氏は政府の用紙割当制度に対しても反対した。それはやはり上述のような理由で読売への用紙割当は「朝日」「毎日」よりも少なかつたからである。しかし一方、正力氏は報知新聞の併合に成功し読売新聞の読者を急激に増大し、財産の点でも非常な利益をえたが、こうしだ正力氏の利得は偏に軍閥政府の言論弾圧政策の賜物であつた。現在「大新聞」といわれている「朝日」「毎日」「読売」は軍閥政府が権力を以て潰した中小の新聞企業の遺産を山分けした結果、今日のように肥えふとつたのである。
 要するに正力氏が当時の政府の政策に反対したのは、新聞統制が比較的劣勢な地位にある新聞にとつては不利益なものだということを知つたからであつた。それは決して帝国主義政策そのものに対する反対ではなかつた。果して正力氏は自分の新聞が潰されず、用紙割当上の不利な点を、報知新聞の併合で埋め合せることが出来てからは、以前にもまして忠実な軍閥の使徒となつた。
 日本の新聞資本家らは統制のワクをはめられれば、大資本に物をいわせて企業の独占を行う自由が奪われるとの観念から、最初は軍閥政府の新聞政策に反対の態度をとつたが、実はファシズムの統制政策なるものは、大資本擁護をその基本方針とすることがわかるや、いずれもこの政策に迎合したのである。

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