礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

清水澄博士、錦ヶ浦から身を投げる(1947・9・25)

2022-08-23 01:42:52 | コラムと名言

◎清水澄博士、錦ヶ浦から身を投げる(1947・9・25)

『国家学会雑誌』第四八巻第五号(一九三四年五月)から、清水澄の論文「帝国憲法改正の限界」本日は、その八回目(最後)。

 帝国憲法第七十四条第二項に「皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ条規ヲ変更スルコトヲ得ス」とある。此の条項の一応の意義は一目瞭然であるが、世には往々之に拡張解釈を加へて、帝国憲法の改正に依つて皇室典範の条規を変更するは妨〈サマタゲ〉なしと云ふ者がある。此の見解に従へば、帝国憲法と皇室典範とは其の効力上に差等あり、前者は後者に比して優越なる効力を有することゝなる。乍併、斯くの如きは我が国法の基本に関する重大なる誤解である。我が国法上、帝国憲法と皇室典範とは其の規定の目的たる事項に於て各々固有の分野を有し、俱に国家根本の法規として最も優越なる効力を具へたるもので、其の間に効力上の優劣のあるべき筈がない。之を両者改正の手続より見るも、帝国憲法の改正には帝国議会の協賛を要するも、皇室典範の改正は帝国議会に付議すべき限でない。されば、皇室典範の改正を以て帝国憲法の条規を変更するは、帝国議会の議を経べきものを之を経ずして行ふことゝなり、孰れ〈イズレ〉にしても関要なる条規に違背するものたるを免れず、其の許すべからざる非違なることは言を俟たざる所である。乃ち、皇室典範の改正を以て帝国憲法の条規を変更することを得ざると同時に、帝国憲法の改正を以て皇室典範の条規を変更することも亦出来ぬ。たゞ、皇位継承及摂政に関する条規は、其の大綱を帝国憲法第二条及第十七条に置き、其の細則を皇室典範第一章及第五章に収めてあるので、皇室典範に於ける細則の改正に因つて、万一にも帝国憲法に於ける大網の条規を変更するが如きことあつてはならぬ。帝国憲法七十四条第二項の規定は、かゝる齟齬の必無を期すべく念の為めに設けられたる注意的条文といふを憚らぬ。帝国憲法の改正に因つて皇室典範の条規を変更してはならぬことは、成文法規に別段の明文はないが、国法上当然の条理として確認せざるべからざる所である。されば、帝国憲法第七十四条第二項の規定は、此の旨義を明にする為めに相当の改正を加ふるは格別、之とは反対の趣旨を加ふる目的を以てしては変更すべからざるものである。
 余事ながら、或る論者は、皇室典範及之に基きて発せらるゝ皇室令が、国法として人民を拘束するの効力を有するは、即ち皇室の自治権は帝国憲法第七十四条の規定を以て国法上の根拠とするものであると説く。皇室を以て自治権の主体なりと解するはよいが、それは我国特殊の体制上むしろ当然の原則であつて、必ずしも帝国憲法第七十四条の規定を根拠とするものではない。若し論者のいふが如くなれば、帝国憲法第七十四条の規定は当然の事理にして特に之を存置するの要なしといふが如き理由を以て、他日該規定を削除することあらんか、皇室の自治権は其の根拠を失ひおのづから消滅に帰するの外なきことゝなる。斯くの如き事態の不都合なるは喋々を要せね。以て右の所説の妥当ならざることを知るに足るであらう。
 一二 前項に記述したる所の如く、帝国憲法の改正を以て皇室典範の条規を変更することは出来ぬ。之を換言すれば、実質上皇室典範の条規に牴触すると認むべきものは、形式上は帝国憲法の改正なるも之を行ふことを得ないのである。乃ち、茲に帝国憲法改正の限界を定むる一の一般的なる制約を認めねばならぬ。
    *    *    *    *
 以上臚陳〈ロチン〉したる所は、帝国憲法改正の限界を知るに足るべき主要なる箇条を列掲したるに止まり、其の限界を画すべきものを洩なく綱羅したのではない。要するに、苟くも我が国家の根本体制に乖離し我が憲法成立の由来に背戻するが如きものは、憲法の改正として断じて許すべからざる所である。いかに憲法改正の手続の規定あればとて、又たとひ形式的手続に於て成規に違反する所なしとするも、憲法の改正にはおのづから一定の限界あり、実質上其の限界を踰越〈ユエツ〉したるものは、国法上確然之を無効とせねばならぬ。  (完)

 このように、憲法学者の清水澄博士は、大日本帝国憲法には「絶対的に変更すべからざるもの」がいくつもあり、その改正には「限界」があることを強調した。ところが、あに計らんや、のちに博士は、最後の枢密院議長として、大日本帝国憲法の「改正」にあたることになった。大日本帝国憲法第七十三条に定められた手続きに従いながらも、博士の言う「絶対的に変更すべからざるもの」を、ことごとく変更して成立したのが、日本国憲法であった。
 清水澄(わたる)博士は、一九四七年(昭和二二)の九月二五日に、熱海の錦ヶ浦海岸から投身自殺した。ウィキペディア「清水澄」の項には、その遺書が紹介されている。遺書は、新憲法実施の日(一九四七年五月三日)に書かれたという。

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