礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

もんぺも終戦後は影を潜めて来ました

2015-08-16 07:00:50 | コラムと名言

◎もんぺも終戦後は影を潜めて来ました

 昨日の続きである。桜田壬午郎著『江戸の蛙』(三鈴社、一九四七)から、一九二三年(大正一二)生まれの女性(当時、二五歳)の書いた文章を紹介している。本日は、その後半。
 昨日、紹介した部分のあと、改行なしに、次のように続く。

 悲しいことは山程あるのですけれどそれは意識の上でのことです。疎開先の両親からはそろそろ片付かなければ言つて参りますが、鏡台が千円もする世の中でどうしようといふのでせう。また両親に目あてがあるとでもいふのでせうか。家はない。食糧はない。食糧が少し楽になる頃は金がないでは男の人だつて結婚しようにも出来ないのではございませんか。焼け出されて着のみ着のまゝの私、僅かに疎開してあつた食べもののために一枚二枚と減らして来たのですもの、もう穿く靴下もなくなりさうです。もんぺも終戦後は影を潜めて来ましたので何となく気まりわるく、これといふ冬着もありませんのでいやでも洋服で通はねばなりません。私は終戦後しばらく両親の疎開先にゐたのですが新円生活ではぼんやりしてゐるわけにもゆかず、また東京に帰つて来てある会社の事務員をしてをります。お友達の中には可成り〈カナリ〉いゝ身なりをしてゐる人もありますが、まじめに考へるとどうしていゝかわかりません。私などの年頃でこんなことを考へてはいけないのでせうが、たゞいのちをながらへてゐるといふばかりです。しかし一度は母にならぬ身と考へますと、今こそしつかりしなければならぬ。日本の女性私の母なども祖母などでも会はなかつたこの苦難の道を、踏みしめて開いて行くのが私達に与へられた運命だと思ひます。「冬来りなば春遠からじ」といふ英国の詩人〔P・B・シェリー〕の言葉を何かで読んだやうに思ひます。闇の中にもどうして光がないといへませう。私はその中の一点の光でもみつけようともがいてをります。

 短い文章だが、読んで、いろいろ考えさせられた。
 彼女は、敗戦直後の悲惨な生活について綴っているが、その悩みのうちの多くは、家族からの圧力、社会的な因習、他人への嫉妬、他人からの視線などに起因するものである。曰く「両親からはそろそろ片付かなければ言つて参ります」、曰く「鏡台が千円もする世の中でどうしようといふのでせう」、曰く「お友達の中には可成りいゝ身なりをしてゐる人もあります」、曰く「もんぺも終戦後は影を潜めて来ましたので何となく気まりわるく」。
 すなわち、彼女を苦しめているのは、吉本隆明のいう「共同幻想」なのではなかったのか。しかも、この「共同幻想」は、戦中に注入された「国家主義的イデオロギー」とは、何の連続性もない。彼女は、敗戦までは、「国家主義的イデオロギー」に振り回され、敗戦後は、一転して、市民社会的な「共同幻想」に悩まされている。
 そしておそらく、彼女は、自分を苦しめているものが、市民社会的な「共同幻想」であることに、うすうす気づいている。なぜなら、引用部分の冒頭で、彼女は「悲しいことは山程あるのですけれどそれは意識の上でのことです」と言っているからである。彼女は、自分を苦しめているのが、そうした「共同幻想」から逃れられない、自分の「意識」であることに、気づいているのではないだろうか。
 話は飛ぶが、こういう時代というのは、「新興宗教」があらわれやすいと思う。かつては、心の支えでもあった「国家主義的イデオロギー」は崩壊した。厳しい生活苦の中で、人々は、「共同幻想」に由来する悩みをかかえている。こういうときに出てくるのが、新興宗教である。どんな新興宗教も、市民社会的な「共同幻想」の打破を訴える一方、それを埋め合わせて余りある「心のささえ」を提示する。事実、敗戦直後の日本には、雨後の筍のように、さまざまな新興宗教が登場した。それらに共鳴し、惹かれてゆく人々も少なくなかったのである。
 このほか、「一度は母にならぬ身と考へます」という言葉にも考えさせられた。戦後の日本の人口増(=日本の復興)は、こういう意識を持った女性に支えられていたといっても過言でないだろう。この問題については、なお補足したいことがあるが、機会を改める。

*このブログの人気記事 2015・8・16(「小坂憲兵曹長」は久しぶりの登場)

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