礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「班長殿、8時15分に投下されたそうです」

2016-08-06 05:03:47 | コラムと名言

◎「班長殿、8時15分に投下されたそうです」

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、八月六日の日誌を紹介し(二五二~二五四ページ)、続いて、『永田町一番地』から、八月六日~八月八日の日誌を紹介する(二二四~二二五ページ)。

『原爆投下は予告されていた』
 八月六日 (月) 晴
 午前零時を過ぎると、いよいよ八月六日に入って来た。途端に隣りの電気機械室にも十名あまり詰めたようで、物音が聞こえる。やっぱり隣室も特別体制をとったようだ。自分は昨日の午後四時から勤務の運続だが、今からの八時間が自分の本番だ。情報室内はもちろん自分一人の勤務だ。上山中尉と話してから数時間、何事もなく静かなものである。
 午前四時ともなると、ここ三日間、朝、昼、晩と一日に三回も、延べ九回も広島に原爆が投下されると、ニューディリー放送は放送しつづけて来たが、本当に今日投下かあるのだろうかと逆に思わせる。「ああ、あれは嘘でした。ジョークでした」と放送されないかを願う。夜は静かで、時計ぽかりがカチカチと時を刻んでゆく。
 午前五時、上山中尉が部屋に入って来られる。
「あっ貴様、三勤から連勤してるんか」と聞かれ、
「はい。こちらが本番です」と答える。「連勤、ご苦労さん」と声をかけられる。
 午前六時、隊長も部屋に入って来られた。午前七時、当番兵がつぎつぎと食事を持って来る。午前八時、後のことが気になったが、田中候補生と勤務を交替して下番する。下番すると、さすがに十六時間連続勤務で疲れたのか、眠くて眠くてならぬので衣袴をぬぎすて、褌一枚で大の字になってすぐ寝てしまった。
 すると、「班長殿! 班長殿!」と、自分を起こす者がいる。先ほど勤務交替した田中ではないか。
「班長殿、いま広島に原子爆弾が投下されたと、ニューディリー放送が放送しております。八時十五分に投下されたそうです」
「あ、そうか。やっぱり。うーん。貴様、席をはずしてだれかに言って来たか」と聞くと、
「隊長殿も上山中尉殿もおられます。上山中尉殿が、黒木にだけは知らせてやれといわれ、お知らせに参りました」
「有難う。礼をいっておいてくれ」といって、時計を見ると、八時三十二分。広島に落とされて十七分間で、寝ている自分が起こされ知る。おそらく敵機から交信で敵の司令部に。敵の司令部から放送局に、どうしてこんなに早く知らされるのだろう。あるいは放送局側から敵司令部に係員が入り込んで待機していたのだろうか。どうしてまた、すぐ放送ができるのだろうか。まったく感心させられる。
 成功のときには、時間だけを打電すれぱすぐ放送ができるように打ち合わせずみだったのだろうか。とにかく、三日も前から打ち合わせしておけばできるのだろうか。ふとニューディリー放送は、本当にインドのニューディリーから放送してるのだろうか。案外、米軍の軍司令部内部に放送設備があって放送しているのではないか、と疑いを持った。
 お祖母さんに、叔母、従妹【いとこ】たち、みんなみんな防空壕の中でじっとしていてくれ。
 祈る気持で一杯だが、それ以上どうしようもない。目をつむると、広島の風景がつぎつぎと目に浮かぶ。広島駅頭、本通筋、広島城、相生橋〈アイオイバシ〉、産業奨励館前、よく見ると、その前に四、五人ずつ並んでいる。ああ二中の卒業写真のアルバムだ。スナップ写真の彩式で、校内の各所を写した残りの物が校外にも回った。あああれがあると、広島が原爆でも昔の写真が残されていると思った。また自分の中の別の心は、家がやられて残っているかいという。
 そのうち眠ったのか。眠っていて眠れない。大の字になって寝ている。広島はやられたんだ。気がつくと十二時前だ。広島がやられたと聞いて、三時間半もよく眠ったものだ。茣蓙〈ゴザ〉の上に体の汗で大という字にぬれている。
 田原は、「班長殿、自分も応援に行きましょうか」と聞く。
「とくに必要ならぱ指示がある。指示があってから行け、指示があるまではどんな勤務でもできるよう充分休養して、自分の本番の時間に能力を発揮するようにしろ」と話す。田原と一緒に昼食を軽く食べて、また横になる。
 午後四時、田中が下番して内務班に帰って来た。報告によれば、
「NHKも、大本営も、広島の原爆についてはまったく何にも放送しません。ニューディリー放送はもちろんですが、重慶放送も広島に原爆が投下されたことについて、どちらも二度も三度も放送がありました」と。
 ふと祖母や叔母や従妹たち、あの大手町九丁目の家で、家の焼けると共に折り重って倒れたのではと不吉な気もする。なんとかみんな手に手を取って生き延びて欲しい。

『永田町一番地』
 八月六日
 ひる間、B29一機が広島に侵入した。警戒は警戒警報のまま、思ひがけない投弾。オレンヂ色の閃火とともに轟然〈ゴウゼン〉、その一弾はたちまちにして広島の殆ど全部を破壊した。恐るべき爆発力、米国の原子爆弾攻撃である。戦〈タタカイ〉の様相は全く一変してしまつた。米国が原子爆弾を使用したとの報道は全世界を震憾させた。

 八月七日
 佐藤大使よりソ連政府の意向が伝達された。曰く「ソ連政府は明八日正式回答を行ふはず」であると。

 八月八日
 待たれたソ連政府の回答は対日宣戦の布告であつた。即ち、モスコー放送はソ連政府が佐藤大使に対し、
 日本が七月二十七日付ポヅダム宣言を拒否した結果日本政府のソ連に対する斡旋方提案 の基礎は失はれソ連邦としては連合国の提案を受諾しポツダム宣言に参加し八月九日より日本と戦争状態に入るべきことを宣言する。
旨を伝達したと発表した。
【一行アキ】
 原子爆弾の惨禍はなほ国民全部には知れ渡つてゐない。けれども、このソ連の参戦は国民に異常な衝動を与へずにはおかなかつた。国民は、強国ソ連を新に〈アラタニ〉敵にまはすことになつた事実で、日本が決定的に不利な最悪の戦局に当面してゐることを知り、その気持ちは悲壮なものがある。

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