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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

古今を問わず蔵書は散逸し滅亡しやすい

2023-04-29 01:15:30 | コラムと名言

◎古今を問わず蔵書は散逸し滅亡しやすい

 三浦藤作の『古典の再検討 古事記と日本書紀』(日本経国社、一九四七)を紹介している。
 本日は、その七回目で、第二章第四節の〔一〕のところを紹介する。

   第四節 「古事記」の伝承
古典の伝承 太安萬侶が元明天皇(第四十三代)の和銅五年即ち紀元一三七二年(西暦七一二年)の正月二十八日に上進した「古事記」が、版本となつて世に現はれたのは、後光明天皇(第百十代)の寛永二十一年(改元正保元年)即ち紀元二三〇四年(西暦一六四四年)であつたから、その間に九百三十二年の歳月を経てゐる。刊行上梓されない書物が、千年に近い長い歳月の間、どうして伝はつて来たのであらうか。ここで古典の伝承といふことを考へて見なければならない。
 支那は文字の国といはれてゐるだけに、文書を印刷する技術も比較的古くから進んでゐたやうである。日本ではいつ頃から書物の印刷刊行がはじまつたか、通説によれば、奈良時代、淳仁天皇(第四十七代)の天平宝字八年(紀元一四二四年、西暦七六四年)に一百万塔を作り、その中に蔵めた〈オサメタ〉陀羅尼〈ダラニ〉が最古の印刷遺物といはれてゐる。平安時代には経文摺写〈キョウモンショウシャ〉が行はれた。鎌倉時代に入つてやや進歩し、法然上人の「撰択集〈センチャクシュウ〉」や正平版の「論語」などの印書が現はれ、室町幕府の頃に至つて、所謂五山版の経文・詩文集・語録等、種々の典籍が刊行せられた。地方では周防〈スオウ〉の大内義隆が、夙に〈ツトニ〉明及び朝鮮に托し国産料紙により経書を印刷した。それが今なほ伝はれる山口本または大内本である。後陽成天皇(第百七代)の天正十八年(西暦一五九〇年)六月に渡来した耶蘇会の印度地方長パードレ・アレッサンドロ・バリニヤニは、最初に渡来したサビエルの前蹤〈ゼンショウ〉を履み、布教の方便として宗教書を翻訳頒布する目的で印刷機と活字とを持つて来たといひ、天正十九年(西暦一五九一年)の加津佐〈カヅサ〉刊「サントスの御作業のうち抜書」が、オツクスフオードのボドレイ文庫の所蔵本中に在り、アーネスト・サトウの「日本耶蘇会刊行書志」の巻頭に覆刻掲載してゐる。しかし、これは外来の宣教師によつて行はれた出版事業の例である。後陽成〈ゴヨウゼイ〉天皇の慶長四年(西暦一五九九年)には、「日本書紀」神代巻二巻の活字刊行が成り、これを慶長勅版と称してゐる。また徳川家康は文教の復興に意を注ぎ、全国の遺書を蒐集して、五山の僧侶に書写せしめ、新に活字を鋳造し、足利学校所蔵「孔子家語〈コウシケゴ〉」・「貞観政要〈ジョウガンセイヨウ〉」・「群書治要」等を刊行せしめた。この時の活字は、文禄征韓の役に朝鮮から伝へたもの、木製と銅製と二種類あつたといふ。これらの事実は記録によつて伝へられ、また刊本も現存してゐる。最古の刊本が何であつたかは判然とわからないが、慶長以後に至り書物刊行の事業が漸く進んで来たことは明らかである。日本の出版はその起原があまり遠くない。
 印刷の技術が開けず、刊行の出来ない時代には、「古事記」のみに限らず、すべての書物がみな写本であつた。一巻の著書が出来上ると、二部なり三部なり必要に応じて副本を作つておいたであらうし、またその書物の内容に関心をもち借覧し筆写して私蔵した者もあつたであらう。その写本をまた他の者が複写するといふやうに、良書は写本が次第に増加したのであつた。しかし、一冊の書物を筆写するには、少からぬ時日を費やし、容易ならぬ労苦を要する。増加したといつても、写本の数は多寡〈タカ〉が知れてゐる。版本に比すれば、如何に部数の少い限定版にも及ばないことは明らかである。古今を問はず、蔵書は散逸し滅亡しやすい性質を有してゐる。火災・水難その他の天災地変や戦争等によつて、夥しい文書が滅びて行く例は、現前の事実として常に目撃するところである。大正十二年〔一九二三〕の大震災では、内務省に於て約百万冊、東京帝国大学に於て約七十万冊、大蔵省に於て約六十万冊、通信省に於て約四十五万冊、文部省に於て約十一万冊の図書が烏有に帰した。私設の文庫や市中の書肆〈ショシ〉等で焼失したものを合算したならば、驚くべき莫大の数に達したであらう。今次の戦禍は、震災の如き突発的の変事と異なり、予め書物の疎開といふことが問題となつてゐたものの、連日連夜の空襲が数ケ月つづき、全国の主要都市大部分が被害を受けたから、文献の喪失も数量を挙げることの出来ないほど絶大なものであつたにちがひない。現代の如く書物の発行部数が多く、保存の設備が整ひ、文献の重要性が認識せられてゐる時代でも、書物の散逸は免れ難く、明治年間に出た名著中、昭和の今日、既に殆ど姿を消し、稀覯本〈キコウボン〉となつてゐるものがある。書物の数が少く、保存する設備も欠けてゐた古代に、一そう甚しい喪失の危険性が伴つてゐたことは、これを察するに難くない。僅〈ワズカ〉に数部か数十部の写本が何百年も喪失せずに伝はつたのは、奇蹟に等しい幸運といつてよからう。
 文字を誤りなく筆写することの困難は、経験ある者の常に痛感するところである。転写の間には、誤字や脱字を生じやすい。原本から筆写した写本を更に他の者が筆写し、その写本をまた別人が筆写するといふやうに、転写が行はれて行く間に若干の誤脱が加はり、少しづつ辞句の異なつた写本が幾種も出来上り、そのうちに原本が喪失して、この写本のみが残ることが多かつた。そればかりでなく、昔の写本は、巻子本〈カンスボン〉といつて、今日の書物と異なり、長い巻物になつてゐたので、多くの歳月を経る間に紙をつぎ合はせた糊が粘りけを失ひ、離れ難れになつたのを、後の人が手入れをして、つぎなほす時に、順序をちがへて錯簡〈サッカン〉を生ずるといふやうなこともあつた。それらの事情により、一字一句もちがはない同じ写本が幾種も残るといふことは殆どない。二種残れば二種ともに、三種残れば三種ともに、みな異本である。原本が既に喪失してしまつて、転写した異本が残つた場合には、これらの写本を原本に照らし合はせて見ることが出来ないから、何れが正しいか、その判定が困難になり、校合といふことの必要を生じ、また異論も現はれて来る。すべての古典は、みなかうした過程を経て後世に伝はつたものである。最も貴重な文献と認められてゐる古典も、最初の原本が残り、それを底本として刊行したものは少く、転々として複写せられ、何百年も後に成れる写本を上梓したものが多い。転写本が原本と全然相違してゐるわけもあるまいが、全然同じものでないことは、異本の残存によつて明らかである。この伝承の過程を顧みても、古典の性質について、一つの明断を下すことが出来る。古典は朧気〈オボロゲ〉に古代の事実を推察する資料としてのみ価値を有する。金科玉条として尊重するほど信頼の出来るものではないといふことである。

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