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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

仏典と古事記との関係を鋭くついた神田秀夫

2023-04-03 01:31:07 | コラムと名言

◎仏典と古事記との関係を鋭くついた神田秀夫

 平凡社の『古事記大成 3 言語文字篇』(一九五七年一二月)は、武田祐吉による編集で、計八編の論考が収められている。執筆者は、服部四郎、亀井孝、河野六郎、小島憲之、佐竹昭広、武田祐吉、賀古明(かこ・あきら)、田辺正雄の八人である。
 本日は、これらの論考のうち、小島憲之の「古事記の文章」を紹介してみたい。ただし、今回、紹介するのは、全七節のうち、「二」の前半部分のみである。

      
 古事記の「かきざま」について、最初のまとまつた論は、本居宣長【のりなが】の古事記伝(一之巻)の中の「文体【カキザマ】の事」であらう。これについては、
 《すべての文、漢文の格【サマ】に書れたり、抑〈ソモ〉此記は、もはら古語を伝ふるを旨【ムネ】とせられたる書なれば、中昔【ナカムカシ】の物語文などの如く、皇国の語のまゝに、一もじもたがへず、仮字書【カナガキ】にこそせらるべきに、いかなれば漢文には物せられつるぞといはむか、いで其ゆゑを委曲【ツバラカ】に示【シメ】さむ……。》
云々と述べ始め、何故に昔のままの古語が不幸にも漢文で書かれてゐるか長々と説いてゐる。漢文的措辞は宣長にとってたまらなく不愉快であった。従つてその漢文的書法についていろいろと例を挙げ、「古語のさまにたがへる処」を聞き苦しいほどにあれこれと弁解してゐる。これは彼の古事記全体に関する見解からして当然の結果である。しかし、かうした見解をすべて骨抜きにして考へると、彼の古事記の文体については、日本語(彼の云ふ古語)を漢字で書き表はすために、どんな種類のものが生れたか、その種類を指摘したことであり、
  ⑴仮字書――久羅下那洲【くらげなす】(州)多陀用幣流【ただよへる】(海月如す漂へる)
  ⑵宣命書――在祁理【アリけり】・吐散登許曽【ハキチラスとこそ】
  ⑶漢文(古語の格に同じもの)――立天浮橋而指下【サシオロス】其沼矛
  ⑷漢文(古語の格にあはないもの)――名ケテ其子ヲ云フ木俣神ト
  ⑸純粋な漢文――不得忍其兄
はその例である。その他これに関連して古言の表記法として、
  ⑴仮字書 ⑵正字 ⑶借字 ⑷三種の混用
をあげてゐるが、全体として未だ素朴の域を脱してはゐないと云へよう(他の国学者の場合も同様である)。
 昭和(三年)に入つて、芳賀矢一〈ハガ・ヤイチ〉博士の遺著「日本文献学・文法論・歴史物語」(冨山房刊)が刊行された。このうち「歴史物語」(大正七年講義ノート)のなかに、古事記の文章について少し触れ、
 《一体仏経の書方を古事記も真似したのであらう。名前を列挙するなどもそれである。仏教【マヽ】には爾時(そのときに)とあるが、古事記には爾(かれ)、故(かれ)を用ふる所を見るによく似て居る。余の考では安麿【マヽ】の書方は仏経に似せたのであらうと思ふ。》
と述べ、比較文学的な面からも注意すべき見解の一端をちらつかせたが、宣長流の古事記観が強く押し出てゐる学界では、かうした仏典云々の問題はトンデモナイこととして潁川【えいせん】で耳を洗ふと云つた有様であつた。この新説が長らくかへりみられなかつたのも無理はない。
 終戦後に至つて、古事記の文章研究の上で、輝かしい論をひろげたのは神田秀夫氏であり、詳しくは、
  ⑴古事記の文体に関する一試論(国語と国文学廿五年六月)、ならびにその「補説」(廿五年八月)
  ⑵「古事記の文体」に就いて(国語国文廿六年七月)
  ⑶日本文学と中国文学(「比較文学」廿八年十月刊)
などに見られる。同氏の諸論は芳賀説とは別に進められ、仏典と古事記との文章上の関係を鋭くついたものである。これに続いて西田長男〈ナガオ〉氏の、
  ⑴古事記の仏教的文体
  ⑵古事記の仏教的文体 続編
  ⑶古事記の仏教語
が発表され(「日本古典の史的研究」第四章所収)、神田氏説と多少の意見を異にするものとは云へ、その根柢には、やはり仏典類の文体との比較と云ふことが深く根ざしてゐることには変りない。つまり古事記の文章研究の一方向は芳賀・神田・西田の諸学者特に神田氏によつて進められたものと云つても過言ではない。
 しかし、これのみでは必ずしもその文章の多様性多角性をつくことはできない。特に古事記と云ふ、背後に種々の複雑な要素を含むものに対してはすべてを一律に考へることはできず、ここに尾崎知光〈サトアキラ〉・西尾光雄の両氏などの論考が現はれたのも無理はない。前者は、神田氏や稿者〔小島憲之〕の論(「古事記の文体」国語国文廿六年四月、「古事記のねらひ」廿九年一月)を強く批判し、観点を変へて「ことば」と「文字」との問題から、「ことばのさま」「かきざま」などの問題へと言及した(「古事記の文体に関する序説的考察」名古屋大学文学部研究論集Ⅳ)。また西尾氏のは、古事記の文章の固定されるまでの背後の層に目をつけ、その一例として主として地の文章と会話の文章とを形容詞その他の面から比較考察した(「古事記の文章」国語と国文学三十年五月)。その他これを対偶法・反覆法・列挙法・倒置法など素朴な修辞学の方面から考察することもでき(倉野憲司博士「古事記の文章」国語と国文学昭和五年四月)、かうした種々の見方の現はれることは、一面からいへば、古事記の文章の考察が容易でないことを示すものである。〈二〇九~二一一ページ〉【以下、略】

 文中、「潁川で耳を洗ふ」は故事成語。不愉快な話を聞いたあと、汚れた耳を洗うの意。
 小島憲之(一九一三~一九九八)は、国文学者で、大阪市立大学名誉教授。主著は、『上代日本文学と中国文学――出典論を中心とする比較文学的考察』全四巻(塙書房、一九六二~二〇一九)。一九六五年(昭和四〇)、同書により、日本学士院賞恩賜賞を受賞した。

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