◎雑誌『ことがら』と雑誌『ておりあ』
小浜逸郎さんへの追悼文「彼は昔の彼ならず」(青木茂雄さん執筆)を紹介している。本日は、その二回目。
2.同人誌の頃
小浜逸郎さん(以下、敬称略)と最初の面識は、私もその一員であった同人誌『ことがら』の編集会議と座談会の場であった。1983年から84年にかけての冬で、当時高円寺にあった木造アパートの一室の狭い編集室で、鍋料理を囲んで行われたように記憶している。『ことがら』※第5号の特集は「家族という経験」で、座談会が企画された。座談は小阪修平、小浜逸郎、万本学の3人で行われ、私は座談に参加しなかつたが、編集担当ということで同席した。小浜は当時同人誌『ておりあ』※※を主宰しており、吉本の『試行』にも文章が掲載された。生計は塾の経営で得ていたという。私にはそのような独立独歩の「自立型」の批評家がまぶしく見えた。長髪で長い髭をたくわえ、眼鏡の奥の鋭い眼光はどこかかのトロツキーを彷彿とさせた。
座談の内容は同誌に掲載された。編集担当の私が言うのも何だが、正直、話の内容はまったくかみ合わず、3人の放談で終わっている。内容も分かりづらいし。たしか、上野千鶴子氏が『朝日ジャーナル』誌上で酷評していたように記憶している。
この頃から、小浜の中心課題は文学論から「家族論」(吉本的に言えば《対幻想》)へと移っていった。1985年には五月社から家族論で一冊単独編集して刊行している。それが彼の出版ジャーナリズムへの最初の登場であった。小阪氏の評によれば、彼は生き生きと張り切って仕事をしていた、ということである。
1984年の夏のある日、小浜から私に依頼が来た。同人誌『ておりあ』4号に何か書いてくれということであった。そこで私は、その年の夏の南アルプス北岳登山の紀行文として「山行雑記」という短文を書いた。登山を労働と捉え、自然に対して外的な行為という観点から書いたエッセーであった。内容的には労働哲学ほどのものになっていると自負しているが、観念的語句の満載するその同人誌の中でひときわ解りやすい文章であった(私は解りやすい文章しか書けないことが当時は悩みであった)と自認している(亡くなった木畑壽信氏にその文章を評価してもらったことが嬉しかった)。
律義な小浜は、その年の暮れに、外部からの執筆者を招待して一席を設け、謝意を表した。その場には小阪修平氏も来ていて、家族論、子育て論が話題となった。小阪は原則的な放任主義の子育て論を述べたが、小浜は自分の子育てと塾経営の経験を踏まえて、子どもには厳しく接し、知識を習得させなければならない、というこれまた原則論を展開した。この議論が、その後の小阪修平と小浜逸郎のそれぞれの軌跡の分岐点となっていたように思う。
さて、私の小文に対する小浜の評であるが、当時私が深見茂名で書いていたいくつかの文章の評価とも合わせて、「エコロジー過ぎる」というものであった。さらに推測するに、“反動的エコロジスト”というレッテルが彼によって貼られたものと私は受け取っている。ちなみにそのレッテルの製造元は、かの吉本隆明である。
どの場であったかは忘れたが、当時小浜は「それは反動だ」というフレーズを、話の結論的部分でよく使っていた。このフレーズは、私の思うに、80年代に路線転換した吉本隆明の方向を小浜なりに咀嚼したものだ。吉本はたしか『反核異論』か何かで、反原発活動家をさして「反動的エコロジスト」とか「反核テロリスト」などという罵声を浴びせていた。律義な小浜は、この吉本の本意を咀嚼してこの図式を考案したものと私は思う。そのくらい、当時の小浜逸郎は吉本隆明に深く傾倒していた(換言すればマインド・コントロールされていた)、と思う。
私の小浜逸郎との接触はこれが最後となった。もちろん『ておりあ』からの原稿依頼はその後一切なかった。
私が小浜と最後に会ったのは、その数年後のことである。川崎の幸区の加瀬のあたりを自転車で通行中、対面通行の自転車に乗った若い男(今から見れば「若い男」である)に声をかけられた、「青木さん、久しぶり」。小浜逸郎であった。「今度この辺のマンションに引っ越した。よかったら遊びに来てよ。」すごく若々しく元気はつらつであった。著述の仕事が順調に軌道に乗り出したのだろうか。彼は、程なくして対面に走り去った。その後ろ姿が今でも目に浮かぶ。 (続く)
※『ことがら』は小阪修平の発案で発足した雑誌で1982年8月に創刊した。一応同人誌だが(小阪は「同人誌ではない」と頑なにこだわっていた)、各人が書きたいものを書く、編集はしない、その代わり書いた分量に応じて金銭負担する、を方針とした。今で言えばネットの「掲示板」のようなものだろうか。各号編集方針というものはないが、その代わり特集座談を行った。大抵、鍋物をつついた飲み会の延長のようなものとして行われた。編集担当は毎回代わり、輪番制をとった。5号が私の担当だったが、私の性格からしてきわめて保守的な編集であった(1984年2月刊)。その後、担当者が代わるたびに、表紙から紙面まで絶えず全面更新され、ついに1986年11月に8号で終刊した。唯一変わらなかったのが「ことがら」というロゴだけであった。
※※『ておりあ』は小浜逸郎の主宰する同人誌であり、前身は『座標』という同人誌であった。『座標』は3号で終刊し『ておりあ』へと継承された。『ことがら』と違って『ておりあ』は誌面の隅々まで、小浜色が貫かれていた、と思う。後に柳田民俗学や東北学で名を知られるようになった赤坂憲雄氏はこの『ておりあ』掲載の「異人たちの肖像」が出発点であった。
【礫川注】 青木さんから、この原稿をいただいたあと、国立国会図書館に赴き、『ておりあ』を閲覧しようとしたが果たせなかった。前身である『座標』も含めて、『ておりあ』は、同館には架蔵されていなかったのである。ちなみに、『ことがら』のほうは、全八巻が架蔵されている(青木茂雄さんが、じかに納本されたものだという)。