礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

真宗の門徒たちは若い説教者をいじめぬく

2022-12-18 03:54:51 | コラムと名言

◎真宗の門徒たちは若い説教者をいじめぬく

 関山和夫『話芸の系譜』(創元社、一九七三)から、「深夜の御開帳」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 幾重にも刻まれた敬道〈キョウドウ〉師の顔のしわには、類稀〈タグイマレ〉なる豊富な人生体験の年輪がある。明治二十四年〔一八九一〕に生まれ、七歳で得度し、十五歳で京都の真宗中学に入ったが、敬道師の〝型破り人生〟は、横着が高じて中学を中退するところから始まった。寺を出て上京し、浮世のあらゆる辛酸をなめた。そこが普通の僧とは違うところだ。東京における放浪生活や朝鮮行きの失敗などが、大衆芸能的要素をもつ後年のユニークな説教生活を支える強い力となった。
 明治も終ろうとする頃から、敬道師は性根〈ショウネ〉をいれかえて説教者を志す。日露戦争の戦勝気分に日本中が酔っていたときである。京都高倉学寮の安居【あんご】の聴講中に、ある説教者の代理で越中へ行き、説教を試みる。実際は一席しかできなかったのに、持ち前の強心臓〈キョウシンゾウ〉で百席はできると大ぼらを吹いて敬道師の初説教旅行が始まったのである。
 越中における説教の旅は、きびしいものであった。そもそも北陸路は、真宗王国といわれる有名な〝説教どころ〟だ。大谷派(東本願寺派)における北陸路、本願寺派(西本願寺派)における山陰・山陽路が説教で巡回できるようになれば一流の説教者だ。そんなむずかしいところへ未熟な敬道師が単身乗りこんだのだからしまらない。最初百人位だった聴衆が翌日はたちまち十人位に激減し、その次の日は五人になった。
 真宗の門徒たちは、すぐれた説教者(話者)を育てることが巧みであった。勢い聴き方がきびしくならざるをえない。「もっと大声を出せ」「もっと上を見てしゃべれ」「そこは節【ふし】をつけよ」「そんな節まわしはおかしい」などと徹底的に若い説教者をいじめぬく。その上、食べ物まで制限がある。つまり、待遇の上で、説教の巧者〈コウシャ〉と劣者〈レッシャ〉とでは大きな差別があった。随行者(前座)などは漬物ばかりであった。
 敬道師は、いわゆる随行修業の方法をとらなかった。一人前の説教者になるためには、普通はすぐれた大説教者に随行して数年間修業をするのがしきたりであった。敬道師の若いころには、その随行修業の方法とは別に説教道場で合宿しながら指導を受ける方法もあった。
 死物狂いで演じた越中の説教体験から、敬道師は、本格的な説教修業を決意した。東京での放浪生活もたたって随行させてくれそうな師匠もなかったので、説教道場へ行くことにした。播州東保〈トウボ〉福専寺は、本願寺派の説教道場として著名で、全国から多数の参加者があった。敬道師はここへ行き、『譬喩因縁三信章開導説教』を一生懸命稽古した。
 東保流説教の家元で敬道師は、稽古本を必死になってマスターした。安居院流【あぐいりゅう】と呼ばれる中世以来の節談【ふしだん】説教の技術を会得して、相当な腕になった敬道師は、単身四国へ渡って説教の旅を続けたのであった。坂出〈サカイデ〉では三カ月も説教を演じて好評を博し、文珠教慧師から御絵伝〈ゴエデン〉説教を習って益々自信をもつに至る。〈一〇~一一ページ〉【以下、次回】

 文中に、「京都高倉学寮の安居」とあるが、「京都高倉学寮」は、京都の高倉通にあった東本願寺の学寮。明治末年における正式名は「真宗高倉大学寮」。「安居(あんご)」は、雨季に僧侶が一箇所で修行すること。
「播州東保福専寺」の「東保」は地名。現在の兵庫県揖保(いぼ)郡太子町(たいしちょう)東保(とうぼ)。東保の福専寺に由来する説教の流派を「東保流説教」と言うらしい。インターネット情報によれば、「東保流」の読みは、「とうぼうりゅう」。
 本日、引用した箇所で、著者は、修行(しゅぎょう)ではなく、修業(しゅぎょう)という字を用いている。あえて、そうしているのであろう。

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