礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

現在の事態では普通では許されないことが許される(宮沢俊義)

2022-12-06 03:22:34 | コラムと名言

◎現在の事態では普通では許されないことが許される(宮沢俊義)

『世界文化』第一巻第四号〔新憲法問題特輯〕(一九四六年五月)から、宮沢俊義の論考「八月革命と国民主権主義」を紹介している。本日は、その二回目。傍点(圏点)は、太字で代用した。

    *    *    *
 政府案がその根本建前として承認しようとしている国民主権主義は、いふまでもなく、それまでの日本の政治の根本建前とは全く性格を異にするものと考へなくてはならぬ。
 国民主権主義といふものは必ずしも在来の日本の政治の根本建前と矛盾するものではないといふ見解もあるやうである。また、日本の政治の根本建前は本来国民主権主義的なものであつたといふ見方もあるらしい。しかし、国の政治上の権威が君主とか、貴族ととかいふものでなく、一般人民にその最終的根拠を有するという意味の国民主権主義が従来の日本の政治の根本建前であつたと解することも、またそれが従来の日本の政治の根本建前と少しも矛盾しないと考へることも理論的にはどうしても、無理である。国民主権主義といふ以上は、天皇の権威の根拠も終局的には人民にあると考へなくしてはならず、その結果として天皇制の存否は終局的には人民の意思に依存するといはなくてはならぬが、従来の日本において、天皇の権威が人民にあるといふ根本建前が採られてゐたと見るのは明白に事実に反するであらう。
 在来の日本の政治の根本建前は、一言でいへば、政治的権威は終局的には神に由来するとするものであつた。これを神権主義と呼ぶことができよう。憲法は大日本帝国は万世一系の天皇が統治し給ふと定めてゐる。ところで、その天皇の権威はいつたいどこから来るかといへば、それは神意から来ると考へられてゐた。具体的にいへば、天孫降臨の神勅がその根拠だとせられた。天皇の権威はここに由来した。天皇は神の御裔〈ミスエ〉として、また御自身現御神〈アラミカミ〉として日本を統治し給ふのだとせられてゐた。
 勿論君民一体とも、君民同治ととも〔ママ〕しばしばいはれた。(もつともこの過去数年間はさういふ表現を用ゐるときつと反國體的だといふので叱られるのが例であつた)。義は君臣にして情は父子ともいはれた。天皇はその統治にあたつてあくまで民意を尊重すべきものとせられ、またその統治は多数国民の輔翼によつてなさるべきものともせられた。しかし、これにもかかはらず、天皇の統治の権威そのものは民意に由来するとはせられなかつた。天皇の統治の権威も根拠は民意とは全く関係のない神意に求められた。
 かやうな根本建前――神権主義――が国民主権主義と全く性格を異にするものであることは明瞭である。
 国民主権主義は政治的権威の根拠としての神といふものをみとめない。それは政治から神を追放したところにその位置を占める。そこでは「民の声は神の声」といはれるから、あるひはそこでは国民が政治から神を追放して自らこれに依つたのだといつてもいゝかも知れない。そこでは国民が政治の最終の根拠である。
 勿論、国民主権主義が当然に君主制を、従つて日本でいへば、天皇制を否定するとはかぎらない。そこで君主制・天皇制をみとめることは十分可能である。その君主が相当に強大な権力を与へられることも決して不可能ではない。しかし、その場合でもその君主・天皇の権威は国民に由来するとせられるのであるから、国民の意思によつて、君主自身の意思には反しても、君主制そのものが全く合法的に変革乃至廃止せしめられる理論的可能性がつねに存する、といふ点で神権主義にもとづく君主制と全くその性格を異にすることが注意せらるべきである。
 国民主権主義が在来の日本の政治の根本建前たる神権主義と論理的に相容れないものであることは明らかであらうとおもふ。
    *    *    *
 このたびの政府の憲法改正草案はかやうな日本の政治の根本建前の変革――神権主義から国民主権主義への変革――を憲法に明文化しようとするものであるが、さういう変革を通常の「憲法改正」の形で行ふことがそもそも憲法上許されることであるかどうか。これは憲法上きはめて重大な問題である。
 現行憲法は憲法改正の手続を定めてゐる。従つて、その条章を改正し、または増補することはそこに定められた手続によつて可能なわけであるが、そこに定められた手続を以てすればどのやうな内容の改正も可能かといふと、決してさうではない。憲法そのものの前提ともなり、根柢ともなつてゐる根本建前といふものは、さうした改正手続によつて改正せられ得るかぎりでない。さうした改正手続そのものがその根本建前によつて、その効力の基礎を与へられてゐるのであるから、その手続でその建前を改正するといふことは論理的にいつても不能とせられざるを得ないのである。
 日本憲法についていへば、天皇が神意にもとづいて日本を統治し給ふとする原則は日本の政治の根本建前であり、憲法自体もその建前を前提とし、根柢としてゐたと考へられる。従つて、その憲法の定める改正手続でその根本建前を変更するといふのは論理的な自殺を意味し、法律的不能だとせられなくてはならぬ。すなはち、天皇が神意にもとづいて日本を統治し給ふといふ原則は憲法に定める憲法改正手続を以てしては変更するなどかできない、といふのが多くの憲法学者の一致した意見であつた。
 それならば、このたびの政府の改正案が憲法の定める憲法改正手続によつて神権主義を廃して国民主権主義を定めようとしてゐるのは法律的に許されることであらうか。この点を問題にしなくてはならぬ。
 私は政府案がかやうな変更を定めようとすることは憲法改正手続によつて可能だと考へてゐる。しかし、それは決して形式上憲法の定める改正手続によりさへすればどのやうな内容の改正も可能だといふ意味ではない。さういふ改正を現行憲法の改正として普通では許されないのであるが、現在の事態の下においてはまさにそれが許されるといふのである。
 ではそれはどのやうな理由にもとづくのであるか。
 この問ひに答へるには、どうしても昨年八月終戦と共に行はれた日本の憲法史上の大変革の本質を十分明らかにすることが必要である。〈六六~六八ページ〉【以下、次回】

 宮沢義俊は、「憲法そのものの前提ともなり、根柢ともなつてゐる根本建前といふもの」を、その憲法の改正手続によつて改正することは、「論理的にいつても不能」だと言う。
 しかし宮沢は、さらにこう続ける。「さういふ改正を現行憲法の改正として普通では許されないのであるが、現在の事態の下においてはまさにそれが許されるといふというのである」。ここで、「さういふ改正を」は原文のまま。ここは、「さういふ改正は」、あるいは「さういふ改正を行ふことは」とすべきであった。また「それが許されるといふ」とあるが、なぜ、「といふ」なのか。なぜ、「とおもふ」ではないのか。この問題については、数回のちに、再度、考えてみたい。

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