礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小沢昭一氏の「説教板敷山」が大入りの聴衆を魅了した

2022-12-24 00:45:58 | コラムと名言

◎小沢昭一氏の「説教板敷山」が大入りの聴衆を魅了した

 関山和夫さんの『話芸の系譜』(創元社、一九七三)の紹介に戻る。本日は、「説教の会」という文章を紹介したい。

 昭和四十五年〔一九七〇〕九月二十二日・二十三日両夜に東京の岩波ホールで「説教の会」が催され、すこぶる盛会であった。
 この催しは、仏教行事ではない。俳優小劇場演劇研究所・芸能研究室が主催した「埋もれた芸能史からの招待」で、日本の話芸の源流を日本仏教の説教の歴史の中に求めて、その本質を探究しようとする、まことに珍しく且つ有意義な企画であった。すべて俳優・小沢昭一氏の発想によるものである。
 わが国の落語・講談・浪花節などの話芸は、古くからある昔話がその語り手たちによって伝承されたという考え方で研究者は調査を続けて来たが、それだけでは物足りなかった。実際に高座に登って〝はなし〟をする技術は、仏教の説教(演説体)によってつちかわれ、洗練され、発展して来たものである。それは歴史に徴して明白である。小沢昭一氏は、全国各地を巡回して芸能の原点を求められた(ビクターレコード『日本の放浪芸』)が、調べれば調べるほど芸能と仏教の深い関係を知り、説教と話芸の親密なかかわりを認識されたという。そして、今もわずかに残る伝統説教を聴き、小沢氏もみずから演じて日本の話芸の特質を知ろうという試みであった。
 この会は、東京で大成功をおさめ、その評判が忽ち全国に伝わり、翌昭和四十六年〔一九七一〕三月二十日・二十一日の両夜に名古屋・東別院青少年会館で、五月一日には東京・浅草の東京本願寺で、十月二十七日夜には大阪・南御堂〈ミナミミドウ〉の御堂会館大ホールで、さらに昭和四十七年〔一九七二〕六月七日夜には福岡・電気ホールで、六月八日夜には京都・シルクホールでそれぞれ催され、いずれも盛況であった。
 この会で、演出家・早野寿郎〈トシロウ〉氏のセンスあふれる構成の中で演じた名優・小沢昭一氏のみごとな「説教板敷山【いたじきやま】」が、大入りの聴衆を完全に魅了し、永六輔氏の司会による鼎談【ていだん】もまことにおもしろかった。
 それとともに、賛助出演された本物の説教師(真宗大谷派布教使)・祖父江省念【そぶえしょうねん】師(名古屋市北区辻町四-五・有隣寺住職)の節談【ふしだん】説教「忠臣蔵・寺岡平右衛門の段」が、きたえぬかれた説教師独特の豊かな声量と巧みな演出、卓越した表出力で満員の聴衆を驚嘆させた。祖父江師の発声法は、日本の芸能者に見られる〝しゃがれ声〟系統のすばらしいもので、現代では芸能のどのジャンルの人にもない美しいものだ。まさに日本一の美声というべきである。
 この会の聴衆は、寺院における説教の聴聞者(善男善女)とはおよそ異質の大学教授・青年僧・布教師・俳優・噺家・講釈師・作家・学生その他都会の若い男女で占められていたが、いずれも説教技術の伝統の底力に恐れ入った様子であった。
 放送界で活躍する永六補氏は、当日のパンフレットに祖父江師の説教を評して「息の根を止められる思いがした」と述べ、さらに「放送芸人の一人として、説教の伝承の義務を感じる」と記しておられる。これは、宗教的立場からの発言ではなく、説教話芸のすばらしさに感動しての発言であろう。昭和四十八年〔一九七三〕八月四日に、金沢東別院でも満堂の膀衆を集めて〝節談説教を聴く会〟が開かれた。〝能登節〟〝加賀節〟の懐しさに聴衆は酔った。小沢昭一氏の司会で寺本明観〈メイカン〉・川岸不退〈フタイ〉・広陵兼純〈ヒロオカ・ケンジュン〉の三師が口演され、まことに有意義であった。まさに北陸は説教の本場である。
 伝統文化の再確認ということは、現代の日本人にとってまことに重要である。文化の進展につれて経験は洗練とともに爛熟して時に本質を忘れてゆがめてしまう。まして、その由来や筋道などは全然別のもののように遠いところへと追いやられてしまう。明治以後の日本は、西欧文明の移入にのみ汲々【きゅうきゅう】として、貴重な日本の伝統文化遺産の継承発展の仕事を忘れてしまった感がある。明治以後の学問研究の方法についてもそれがいえる。わが国の〝はなしの系譜〟を探究するのも、神道系の方法、民俗学による昔話の蒐集の仕事がずっとおこなわれてきた。それはそれで貴重だが、わが国の話術や話芸の歴史の主流を占めたものは〝説教〟であったことも注意しなければなるまい。
 ところが、この説教の歴史研究の方法は近代の学問には全然登場しなかった。それは肝心の宗門の中に説教者を〝河原乞食〟とさげすむ傾向が古くからあり、教団発展に最大の貢献をした説教者を蔑視してきたからである。いわば説教者は日本仏教の歴史を通じて日蔭者扱いをされ、近代においては全く無視されてしまったのである。だが、説教者たちが命がけで話し方技術を訓練し、大衆の大きな支持を得た功績は、日本話芸の歴史追及の面で高く評価されねばならない。〈五六~五九ページ〉【以下略】

 文中、「小沢昭一氏は、全国各地を巡回して芸能の原点を求められた」とあるが、それについては、関山和夫さんからの教示も少なくなかったであろう、と推測する。ちなみに、『話芸の系譜』四二ページによれば、小沢昭一さんは、一九七〇年(昭和四五)一二月四日、関山さんの案内によって、三重県坂本の敬善寺(きょうぜんじ)に藤嶽敬道(ふじたけ・きょうどう)師を訪ねたという。【この話、続く】

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