礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

敬道師は堂々と「節談説教」を開始した

2022-12-17 02:30:20 | コラムと名言

◎敬道師は堂々と「節談説教」を開始した

 数日前、久しぶりに関山和夫さんの『話芸の系譜』(創元社、一九七三)を手に取った。関山さんの本は、これまで何冊か読んでいるが、私にとっては、この『話芸の系譜』が最も魅力的である。
 その冒頭に、「深夜の御開帳」という文章がある。これが実にいい。本日以降、何回かに分けて、これを紹介してみたい。ちなみに、著者は、「御開帳」を、「おかいちょう」と読ませている。文中、傍点が施されているところは、下線で代用した。

   深 夜 の 御 開 帳

 敬善寺〈キョウゼンジ〉は、伊勢の国の北端、鈴鹿山派と養老山脈にはさまれた静かな村落に建つ。今は三重県員弁〈イナベ〉郡藤原町〈フジワラチョウ〉坂本というのだが、つい先ごろまでは藤原村といった。坂本は、〝町〟とは名のみで、あいかわらず風光明美な昔ながらの村である。
 寺の裏の藤原岳を越えれば近江の国であり、多賀大社はほど近い。敬善寺の老僧・藤嶽敬道〈フジタケ・キョウドウ〉師は、今年八十二歳になる快僧で、今では数少ない真宗の伝統説教者の一人である。かつて日本話芸の主流を占めた説教の伝統を、善悪両面を含めて敬道師は体中に秘めている。現在の宗門当局(真宗大谷派)から、どのように見られようと、どう批判されようと、それは敬道師にとっては、かかわりのないことである。敬道師の歩いた道は、そのまま旧い説教の歴史を率直に教えてやまない。まさに話芸の歴史を究明するものにとっては、貴重な存在といわねばならない。
 昭和四十六年〔一九七一〕八月八日。私は敬道師のお招きを受けて敬禅寺を訪れた。敬道師一代の説教生活の中で、ただ一つ実った同師主宰の〝通俗仏教夏期講習会〟に出席するためである。近鉄富田〈トミダ〉駅(四日市市)から三岐〈サンギ〉鉄道に乗る。終点西藤原駅から、ゆっくりと歩く。こういう僻地へ行くときは、絶対にあせってはならぬ。鈴鹿の山なみが迫る。釈迦ガ岳・龍ガ岳・藤原岳と続く山なみの中にも石榑峠〈イシグレトウゲ〉や治田峠〈ハッタトウゲ〉があり、その昔の信仰者たちの足跡をみることができる。
 ゆったりとうねって続く白い道は、うるおいと親しみにあふれる。松は古い道の年輪と格調を膚に刻み、底深く広がる空と砂のように流れる雲が北勢を訪れた旅人の心を〝夏〟に引きこむ。胸に強く響く山路の量感と、遠く遙かな郷愁が交錯して、そのまま自然の中に吸いこまれそうな坂本の風趣である。やがて敬善寺に着く。すでに二百人もの善男善女が集まって賑やかであった。夏の影法師に寄りそわれた敬善寺への参道は、痛いほど感覚的で、懐古的で、しかも秘めた歴史が私にダイナミックに迫る。その昔、この村へは僧(説教者)と薬屋以外は滅多に入れなかったという。あの山を越え、この細道を歩き、そしてこの寺に杖曳いたわらじばきの求道の僧や、その説教を聴聞するために敬虔な心を捧げて寺の門をくぐった門徒たちの姿を彷彿と思い浮かべるとき、私は異様な胸のときめきを感ずるのであった。
 敬道師の説教は古風そのもので、なんのてらいもなかった。〝講習会〟などというのは名のみで、大昔から伝承された説教そのものであり、それが実にさわやかだ。〝そこひ〟のためによく見えぬ眼を意識することなく、敬道師は堂々と〝節談【ふしだん】説教〟を開始した。昔ながらの〝呼ぼり説教〟だ。〝呼ぼり説教〟とは、尾張勢地方の方言から出た呼称で、〝呼ばわり説教〟〝呼ばり説教〟ともいう。高座の上から、大勢の聴衆に向って、呼びかけるように、語尾を長くひっぱりながらする効果的な話法である。老齢のために声質はにごっていても、さすがに六十年にもわたる説教者としてのキャリアが、ものをいって、善男善女を吸いこむようであった。〈八~一〇ページ〉【以下、次回】

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