礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国家の統治権は天皇に源を発する(美濃部達吉)

2022-12-04 06:40:47 | コラムと名言

◎国家の統治権は天皇に源を発する(美濃部達吉)

『世界文化』第一巻第四号〔新憲法問題特輯〕(一九四六年五月)から、美濃部達吉の論考「憲法改正の基本問題」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

    
 憲法改正の内容に関しては、他の機会に於いて述べたことも有り、詳細は此処には省略したいが、最も重要な根本問題は言ふまでもなく、天皇の統治大権に付いてである。
 私は国家の根本法としての憲法は、一般国法の中でも、殊に国民心理に深い根抵を有つてゐなければならぬもので、而も国民心理を支配する最も重要な要素は、其の国の歴史であることを、確信して疑はないものである。憲法の改正に当り万一にも長い間の歴史的伝統を無視し、強固な国民心理を顧慮せず、徒に〈イタズラニ〉空疎な観念的の理想論に依つて改正を断行するやうなことが有るとすれば、国家の統一は破れて国内は動乱に陥るの外ないことは東西諸国の歴史の証明する所である。
 比の意味に於いて私は我が憲法に於いて、天皇が国の元首として国家統治の最高の源泉たる地位に在ます〈マシマス〉ことを、不変の原則として支持せんことを強く主張するもので、それに依つてのみ我が国家の統一は維持せられ、民主的の政治もそれに依り始めて実現せられ得べきことを信ずるものである。
 勿論、憲法第一条、第三条又は第四条の文言は、往々にして誤解を生じ易き虞〈オソレ〉が有り、其の文字を適当に修正し又は不必要の字句は之を削除することには敢て異論は無いが、唯実質に於いて我が国が上古以来連綿たる世襲君主国であり、天皇を君主として奉戴し、国家の統治権は天皇に其の最高の源を発することの主義のみは、飽くまで之を支持せねばならぬことを信ずる。
 それは単に儀礼的な象徴として天皇制を維持しようとするのではなく、憲法上に国家統治の大権が天皇に其の源を発するものならしむることが必要である。少くとも法律を裁可し及ぴ国務大臣を任免するの権は必然に天皇の大権に存するものでなければならぬ。勿論実際上には仮令〈タトイ〉憲法上法律は天皇の裁可に依つて始めて成立するものである、裁可を拒否することは大権の自由であるとしても、憲法実施以来数十年の間嘗て〈カツテ〉一たびも不裁可の実例は無く、裁可は唯形式のみで実際は法律は議会の議決のみに依つて既に成立するものと為すのと同様であり、又憲法上は国務大臣は天皇の任免する所であるとしても、実際上は其の任免は自由ではなく、衆議院の信任に依つて左右せらるるのであるが、単に形式にのみ止まるとしても、形式上に天皇の裁可を終、天皇から信任せらるることが、一般国民に対し法律又は国務大臣の権威を維持する所以であつて、国民心理を尊重する上から言つて、斯かる形式は決して軽視すべからざるものである。 
 憲法上に統治権の最高の源泉が天皇に存するものと定められて居る以上は、時としては権臣〈ケンシン〉が天皇を擁し天皇の名に於いて専制的の権力を行ふといふやうな弊害が起らないとは断言し難いことは、近く吾々が軍閥政府に於いて経験したところである。併し軍閥政府が政権を擅〈ホシイママ〉にしたのは、武力を雍する者が武力に依つて政治家を脅威し、議会其の他の政治家をして全く無力ならしめた結果であつて、陸海軍の解消せられた現在に於いては、再び斯かる弊害を生ずる虞はなく、仮りに万一其の虞が有るとしても、強ひて斯かる万一の場合を想像し、それに依つて憲法上の最も重要な基礎原則を動かさんとするが如きは、到底正当な理由あるものとは認められない。
 其の他の諸点に付いては唯簡単に一言するに止める。
 (一)  国の公の名称としては、従来の憲法は「大日本帝国」と称してゐたのであるが、之を単に「日本国」と称することに改めるに付いては、別段の異議は無い。
 但しそれが為めに「帝国議会」、「帝国大学」、「帝国学士院」などの名称をまでも改めようとするのは、聊か〈イササカ〉行き過ぎの感が無いではない。日本を君主国として維持する以上は、「帝国」と称することも敢て忌避すべき理由は無いであらう。
 (二) 永久に軍備を撤廃し戦争の権利を放棄することは、国際協調なくして、一国だけで単独に之を実行することは、不可能であらうが、幸に国際的の風潮は強く其の方向に向つて居り、我が国が率先して其の風潮を促進する為めに、憲法に斯かる規定を設くることは、歓迎すべきであらう。
 (三) 法律の裁可、官吏の任免等を除き、其の他の憲法上の天皇の大権を縮減し、それに比例して議員の権限を拡張することは、民主政の実現の為めに当然断行せらるべきもので之に反対すべき理由は無い。
 (四) 華族制度は之を全廃するを至当と為すべきであらう
 (五) 人民の基本的権利を憲法中に規定することは、実質的には大なる効果を期待し難く、寧ろ法律の規定に譲るを通当とすべきであるが、特に重要な権利に関しては、法律を以ても侵すことの出来ない限度を保障する規定を設くることが、適当であらう。
 (六) 貴族院制度に代ふるに参議院制度を以てすることは、賛成であるが、参議院の構成を如何に定むべきかは、慎重に考慮せらるべき問題で、衆議院と同様に一般国民から公選するものと為すことは、容易に賛成し難い。
 (七) 法律が憲法に牴触するや否やに付き、裁判所に其の審査権が有るものとすることは、適当の制度とは思考し難い、此の点は寧ろ現行の制を其の侭維持すべきであらう。〈六二~六三ページ〉

 美濃部達吉は、一九四六年(昭和二一)三月六日に発表された「改正草案要網」を読んで、この論考を書いている。そして、三つの理由から、この「改正草案要網」の方向で進んでいる憲法改正の動きを批判している。
 その一。帝国憲法第七三条は、日本が、ポツダム宣言を受諾したことによって失効している。したがって、この第七三条によって憲法を改正することは許されない。
 その二。憲法の改正をおこなうためには、「憲法会議」ともいうべき特別の議会を開き、そこでの議決の結果を「国民投票」に付すのが適当である。
 その三。わが国は、「上古以来連綿たる世襲君主国」である。「国家の統治権は天皇に其の最高の源を発することの主義」を、あくまでも支持しなければならない。
 本日、紹介した「二」の冒頭に、「憲法改正の内容に関しては、他の機会に於いて述べたことも有り」とあるが、これは、一九四五年(昭和二〇)一〇月の二〇日から二二日までの間に、朝日新聞紙上に発表した「憲法改正問題」を指していると思われる。

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