◎日本を第二のドイツたらしめんとした九カ国条約
本多熊太郎講述『世界新秩序と日本』(東亜連盟、一九四〇年一〇月)から、「現前の世界情勢と日本の立場」を紹介している。本日は、その三回目。
其 の 二
今度の欧洲戦争は、これは現状維持の英国と、現状を打破して欧洲に新秩序を建設しようとするドイツとの闘争である。これは国技館の角力〈スモウ〉を批評するやうな態度で見てゐるべきものでなく日本国家として、日本民族として重大な関心が払はれなければならない。今度の欧洲戦争はヴエルサイユ条約がその原因を作つたのである。日本が国際連盟を脱退した一事に考ふるも、日本に関するかぎりにおいても、ヴエルサイユ条約は不都合なものであることが明瞭だ。これは私が言ふのではなく、元ロンドンタイムスの有力なる記者で同紙在米特派員総監督の地位にあり、その後第一次欧洲戦争の中程から英国外務省の新聞局長、謂ば外務省情報部長として最近までその職に在つた、サー・アーサー・ウイラート〔Sir Arthur Willert〕といふ人が一昨年〔一九三八〕発表した、或る論文に次のやうなことを言つてゐる。
「世界が防共枢軸の三大国日、独、伊と、現状維持の英、仏それに英、仏の背後の力となる米国及びロシヤ(英、仏はロシヤを味方と思つてゐた)との二つの陣営に分れてをると見るのが常識である。蓋し〈ケダシ〉前回の世界戦争の清算は二回に分れて行はれた。第一回はヴエルサイユ条約である。彼の強大国ドイツから独立国家としての当然の権利までも剥奪してしまつた。又イタリアは英伊間のロンドン密約に依つてアフリカ等に於ける植民地獲得に英仏が確乎たる保障を得て、其の約束に依つて参戦し、イタリアの参戦に依つて連合国の勝利に帰したのであるが、パリ講和会議ではこのロンドン密約で認められた保障を反古〈ホゴ〉にされ謂はゞ敵国同様のひどい目に遭つた。其後英国は遅れ馳せ〈オクレバセ〉ながら少しばかりイタリアに対する条件を履行したが、仏国は いまだにヅルを極めてゐる。日本は、ヴエルサイユ条約に於てはその要求通り山東省のドイツ権益の相続継承を一応認められたが、其翌年英米二国で相談の上開催されたワシントン会議で之は全部取上げられ、ワシントン会議と併行して其現場で日支会議を開き租借地も鉄道も凡て〈スベテ〉日本がヴエルサイユ条約で認められた権利は只で支那へ移されてしまつた。それだけではなく日英同盟も破棄され、之に代るに九国条約で縛られ、それから更に海軍軍縮条約を以て日本の海軍兵力を英米の五、五に対して三即ち六割に釘づけにしてしまつた。つまり世界大戦の清算は日本に対しては二度行はれたわけだ。パリで日本の要求を容れ一年経つてから英米二国でワシントン会議を催ふし日本へ与へてあったものを全部取上げてしまひ加ふるに海軍の国防権まで制限した。日本は日英同盟に依つて戦争の手伝をしたが、用が済んだら英国は日英同盟を破棄してしまつたのである」云々と。
なほ又同氏は
「英国はヴエルサイユ条約によつてドイツ海軍を全滅させた」
と書いておる、この言葉は非常に意味深長である。戦でドイツ海軍を撃滅したのぢやない、実際戦争では英国は、ドイツ海軍を如何ともでき得なかつたのだが、講和条約によつてドイツの全海軍を取上げてしまつたのである。そこで日英同盟の必要はなくなつてしまつた。日英同盟は対独国防の便宜手段として英国が利用して居たのだが、これを廃棄して米国の歓心を求めることができたのであつた。華府〔ワシントン〕会議で出来た諸条約やロンドン海軍条約は、あれは譬へて云へばニユーヨーク辺のデパートで出来合の洋服を英米が見つけて「君には甚だ似合ふからこれを着給へ」とおだてゝ日本に着せたのだ。所が日本は若い国であるから段々成長発育して来る、胸が張り腕が伸びて遂にハミ出した。即ち其ハミ出しが満洲事変である。又英国前外務省情報部長がその論文に書いてあることだが、ヴエルサイユ条約は弱体ドイツ、戦敗ドイツといふ礎石の上に欧洲平和の殿堂を築いたのである。併しヒトラーのドイツが現れ一九三三年〔昭和八〕一月ヒトラー政権を執ると同時に弱体ドイツの上に築かれた欧洲の平和はぐらつき出し、今や一髮千鈎を引くの危きに瀕するに至つて居るとある。ヴエルサイユ条約はドイツを金縛りにし、九国条約は日本を第二のドイツたらしめんとしたものである。【以下、次回】
文中、「九国条約」とは、今日、「九カ国条約」と呼ばれているものである。ウィキペディア「九カ国条約」の冒頭部分を引用しておく。
九カ国条約(きゅうかこくじょうやく、Nine-Power Treaty)は、1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9か国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国の間で同年2月6日に締結された条約。