◎三国同盟の締結は僕一生の不覚だった(松岡洋右)
先日、三輪公忠氏の『松岡洋右――その人物と外交』(中公新書、一九七一)を読んでみた。外交官・松岡洋右の人物と外交を、過不足なく描いた好著であった。
特に関心を持って読んだのは、第八章「松岡外交――三国同盟の締結とその破綻」である。その一部を、以下に引用させていただこう(一八六~一八七ページ)。
昭和十六年十二月八日、ジュネーブにおいて松岡全権が、「十字架上の日本」というあの演説をしてからちょうど九年目の記念日に、日本は真珠湾への奇襲攻撃をもってアメリカと交戦状態にはいった。この日米開戦のニュースをもって千駄ヶ谷の私邸に松岡を訪ねた斎藤良衛〈リョウエイ〉博士に、松岡は病にやつれた眼に涙をためて、
《三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを今更ながら痛感する。僕の外交が世界平和の樹立を目標としたことは、君も知っている通りであるが、世間から僕は侵略の片棒かつぎと誤解されている。僕の不徳の致すところとはいいながら、誠に遺憾だ。殊に三国同盟は、アメリカの参戦防止によって、世界戦争の再起を予防し、世界の平和を回復し国家を泰山の安きにおくことを目的としたのだが、事ことごとく志とちがい、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと、死んでも死にきれない。》
といって果てはすすり泣いたという*。
*は、注の記号である。それに対応する注(二一一ページ)によれば、引用されている文章は、斎藤良衛『欺かれた歴史』(読売新聞社、一九五五)の八九ページにあるという。
日米開戦を知った松岡洋右が、「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だった」と言って泣いたという逸話は、ほかの本でも読んだ記憶がある。その典拠も、たぶん、斎藤良衛の『欺かれた歴史』だったのであろう。
さて、松岡のこの逸話が本当だとすると、松岡は、三国同盟の締結が日米開戦の遠因になったことを、よく認識していたし、そのことについて自責の念も持っていたことになる。
一方、第二次近衛内閣の外務大臣に松岡を起用し、三国同盟の締結を推進した近衛文麿は、最後まで、三国同盟は日米開戦の原因ではなかったと強弁した。近衛と松岡、どちらの政治責任が重いのかという議論は、しばらく措く。人間として、どちらが「正直」だったかと言えば、松岡のほうが正直だったのではあるまいか。
次回は、重光葵『昭和の動乱』から、「松岡外交」の章を読んでみたい。