◎本多熊太郎とクーデンホーフ=カレルギー
本多熊太郎という人物については、よく知らなかった。ウィキペディア「本多熊太郎」の項の冒頭には、次のような説明がある。
本多 熊太郎(ほんだ くまたろう 明治7年(1874年)12月8日~昭和23年(1948年)12月18日)は、明治・大正・昭和の外交官、太平洋戦争時の中華民国大使、東條内閣の外交顧問。戦後はA級戦犯として逮捕された。
そのあとに、「来歴・人物」として、次のようにあった。
東京法学院(中央大学)法科在学中の明治27年(1894年)5月に外務省留学生試験合格、翌年の明治28年(1895年)8月に外務省書記生試験(専門職)に合格し、外務省入省。明治34年(1901年)、小村寿太郎外相の秘書官となり、日露戦争のポーツマス講和会議に随行。後藤新平の満鉄総裁当時、北京公使館の二等書記官となった。大正7年(1918年)、スイス公使、大正13年(1924年)からドイツ大使を務めて退任。ドイツ大使を務める間、欧州統合論の主導者クーデンホーフ=カレルギー伯と親交を結び、伯の論評を読んで報告を上げてきた外交官鹿島守之助(当時は永富守之助。のち鹿島建設会長、戦後自民党議員)に伯を紹介した。
昭和15年(1940年)、松岡洋右外相に起用されて汪兆銘政権下の南京に中国大使として赴任。昭和19年(1944年)に東條内閣の外交顧問に就任。
昭和20年(1945年)12月、連合国より第三次戦犯指名され、A級戦犯として逮捕され巣鴨刑務所に収監。その後、病気により釈放。
インターネット情報によれば、本多熊太郎は、汪兆銘政権下における初代駐支大使で、親任されたのは、第二次近衛内閣時代の一九四〇年(昭和一五)一二月七日(従三位勲一等 本多熊太郎/任特命全権大使中華民国駐剳被仰付)。東條内閣の外交顧問に就任した月日は未詳。
本多熊太郎がA級戦犯に指名された理由としては、汪兆銘政権下の駐支大使、東條内閣の外交顧問といった経歴が大きかったと思う。しかし、彼がA級戦犯に指名された理由が、そうした経歴だけだったとは思えない。「現前の世界情勢と日本の立場」と題された講演(一九四〇・七・六、秋田市)によっても明らかな通り、本多は、対英米開戦の前から、筋金入りの反英米論者であり強硬論者であった。そうした彼の思想性や言論活動もまた、A級戦犯に指名された理由となった可能性がある。
なお、ウィキペディア「本多熊太郎」によれば、本多は、「欧州統合論の主導者クーデンホーフ=カレルギー伯」と親交を結んでいたという。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書『パン・ヨーロッパ』を、『汎ヨーロツパ』(国際連盟協会、一九二七)として日本語訳したのは永富守之助だったが、その永富守之助(後の鹿島守之助)を、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーに紹介したのは、ドイツ大使時代の本多熊太郎だったという。
ウィキペディア「本多熊太郎」は、参考文献として、戸澤英典氏の「クーデンホーフ・カレルギーと鹿島守之助 (1)」(ホームページ『RCK通信』)を挙げているが、この文献は、「同(2)」、「同(3)」と併せて読むべきである。それらを併せ読むと、「大東亜共栄圏」という発想の原点は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの「パン・ヨーロッパ」にあったのではないかと思えてくる(戸澤英典氏がそのように言っているわけではない)。ちなみに、永富守之助には、『汎亜細亜運動と汎欧羅巴運動』(北文館、一九二六)という著書があるという(未見)。
明日は、小冊子『世界新秩序と日本』(東亜連盟、一九四〇年一〇月)について補足する。