◎共産ソ連は有利なる中立的立場に立った
重光葵『昭和の動乱 下』(中央公論社、一九五二年四月)から、「三国同盟 その三」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
四
三国同盟調印とその反響 日独伊三国同盟は、東京において、松岡〔洋右〕外相とオット大使及びスターマー公使との間に交渉を了し、ベルリンにおいて日独伊三国の間に、一九四〇年九月二十七日署名調印を了した。
元来、天皇陛下は、元老とともに、三国同盟には非常に反対であつたが、近衛〔文麿〕公の輔弼〈ホヒツ〉説得によつて、遂に政府の意見にしたがはれたのであつた。而して、日本は、今後三国同盟を国策の基底とし、枢軸政策に拠るのである、ことが特に詔書の渙発によつて、明らかにせられた。
まさかと思はれた三国同盟が締結された、ことが発表されて、世界に深刻な反響を与へた。世界は、明らかに、独伊及び日の枢軸国と、これに対する英仏米の民主国とに二分されてしまつて、共産ソ連は、有利なる中立的立場を維持することとなつた。而して、日本と英仏米との関係は急転直下悪化して行つた。
しかし、〔第二次〕近衛内閣は、三国同盟の締結をもつて、日本の両隣たる米ソ両国との国交を改善する目的に一致するものである、と枢密院に対して一般常識とは異なつた説明を、してゐる。おそらくは、ソ連との国交改善は、ドイツの斡旋によることを予定し、また米国は三国同盟の圧力によつて、戦争参加を躊躇すべしといふドイツ側の説明を受入れたものであらう。三国同盟が、いかにして米英に対する国交に邪魔にならずして、却つて改善の途となるか、これがブラフ外交でない以上は、三国同盟に終始反対した記者〔重光葵〕等の到底理解する能はざる〈アタワザル〉ところであつた。それはともかく、松岡外相は、訪欧の帰途モスクワにおいて、米国大使シュタインハルトに会見して日米国交のことを論じてをり、近衛公は間もなく、日米交渉を善意をもつて開始してゐる。また松岡外相は、在英大使たる記者に対して、一度ならず英国との国交改善に努力する旨を伝報して来、チャーチル首相とも意見の交換を行ひ、日英国交を重要視する旨を通告してゐる。しかし、記者は、三国同盟締結後、日本の国際的地位は、すでに救ふべからざるものとなったことを感じて、極度の失望を表せざるを得なかつた。
独英戦争の深刻となるに従ひ、日本軍部の反英親独の空気は一層濃厚となり、近衛内閣が出来て間もなく、日本滞在の多くの英国人は、間諜行為の嫌疑をもつて憲兵隊に監禁せられるところとなり、ロイター記者コックスの憲兵隊における自殺のごとき不祥事件も起り、英国との関係は悪化する一方であつた。軍部は、日を経るに従つて、英国との関係の悪化を当然のこととして予定してをるやうにも邪推された。
ロイター記者コックスの自殺事件については、ウィキペディア「コックス事件」に詳しい説明がある。その冒頭は、次のようになっている。
コックス事件(コックスじけん)は、1940年7月27日に、日本各地で在留英国人11人が憲兵隊に軍機保護法違反容疑で一斉に検挙され、7月29日にそのうちの1人でロイター通信東京支局長のM.J.コックスが東京憲兵隊の取り調べ中に憲兵司令部の建物から飛び降り、死亡した事件。同日、日本の外務省が英国人の逮捕とコックスの死亡を発表し、死因を自殺と推定した。