◎松岡外交はある意味の「革命外交」であった(重光葵)
ここで再び、重光葵『昭和の動乱』を読んでみたい。本日以降、『昭和の動乱 下』(中央公論社、一九五二年四月)から「松岡外交」の章を紹介する。この章は、同書の第七編「日独伊の枢軸(近衛第二及び第三次内閣)」に含まれている(二二~二八ページ)。
一
松岡革新外交 松岡外交は、日本において初めて現はれた、或る意味の革命外交であつた。松岡〔洋右〕君は、明らかに日本の国家改造といふ革新を成就せん、と考へてゐたもののごとく、その出発点を日独伊三国同盟に置き、対内外の革新を、ナチ張りに実行せんとした。軍を中心とした革新の機が日本において熟した、と見て、その潮に乗つてこれを指導せんとしたやうである。
三国同盟の締結によつて、明白にその政策を下僚に指示した松岡外相は、外務省の首脳部を、枢軸政策を謳歌支援する者をもつて構成するとともに、従来外交の本流をなしてゐた主なる外交官、特に在外大公使の殆んど全部を罷免するの措置に出た。これがために、日本の在外外交機関の機能が一時停止することも敢へて辞せなかつた。彼は、軍部の有する国際情報により多く信頼したため、出先外交機関を不必要と感じたのである。この荒療治は、彼が日本革新行動の先駆とならんがため、先づその管轄たる外務省内において範を示したものであつたが、軍部も他の政府機関も、予期に反し、殆んどこれに追随はしなかつた。
三国同盟を締結して、日本の方向を決定してしまひ、日支基本協定によつて、対支問題を処理した後の松岡外交は、軍の要望によつて、直ちに南方に向けられた。仏印の問題は、陸軍及び海軍の政策と松岡外交との三拍子揃つた後に起つた。
松岡外交はドイツの勝利を信じ、これに一切を賭したものであつて、その成功を前提として「大東亜共栄圏」を建設して、東亜における日本の地位を積極的に固めんとしたものであつた。「東亜」を「大東亜」とし、その意義を拡張して、ヒットラー張りの外交を進めて行つた。松岡外相の実現した三国同盟の締結、日ソ中立条約の取極め、日支基本協定の批准及びその南方策は、いづれもこの根本方策に基づくものであつた。【以下、次回】