礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

映画『ザ・シューター』のラストシーンの意味するところ

2019-10-12 02:58:54 | コラムと名言

◎映画『ザ・シューター』のラストシーンの意味するところ

 昨日の話の続きである。昨日のコラム「映画『ザ・シューター』の音声解説を視聴した」で私は、「フークア監督による音声解説を視聴してみて、いろいろと得るところがあった」と書いた。
 その得たところの第一は、この映画の結末については、何通りかの案が用意されていたのを知ったことである。当初、アントワーン・フークア監督が考えていたエンディングは、ボブ(マーク・ウォールバーグ)とサラ(ケイト・マーラ)とFBIの新人捜査官メンフィス(マイケル・ペーニャ)の三人が、司法省の前で会話しているというもの、あるいは、ミーチャム上院議員(ネット・ビーティー)を乗せた飛行機が爆発するというもの、などであったらしい。そして、この「など」には、事件の黒幕らを銃撃によって葬り去る形での「復讐」は含まれていなかったと思われる。
 ということは、実際に採用されたエンディングは、フークア監督が考えていたものではなかったということである。監督の語るところによれば、このエンディングは、関係者の「話し合い」の結果、採用されたものであって、その話し合いの席では、映画の観客は暴力による復讐を好むという意見が強かった模様である。映画の結末が、このように最初から、いくつか用意されていること、その最終的な決定は、関係者の話し合いによってなされるということは知らなかった。この事実を知ったというのが、得たところの第二である。
 フークア監督は、「結果的には、このエンディングで良かった」と語っている。「どうして、こういうエンディングにしたのか」という記者らの質問に対しては、「国民は政府に対して良い印象を持っていない。そうした国民の気持ちは、こういう形で爆発させるのが良い」と答えたと言っている。これが、フークア監督の「真意」なのかどうかはわからない。しかし、フークア監督は、アメリカという国において、この種の映画が担わされている役割というものを、よく認識している。アメリカ映画におけるそうした「役割」、つまり国民の政府に対する不満をガス抜きするという役割を知ったことが、得たところの第三であった。
 なお私は、「結果的には、このエンディングで良かった」という言葉にもかかわらず、フークア監督は、このエンディングに納得していないという印象を持った。それは、監督が、このエンディングにした場合には、「ハッピーエンドにならない」と語っていたからである。たしかに、ハッピーエンドにはならない。このあと、ボブとサラは、当局から追われる「逃亡者」ということになるはずである。この映画のラストシーン、一直線の道を、ふたりが乗った車が走り抜けるシーンは、そのことを象徴するシーンである。
 やはり、フークア監督は、『モダン・タイムス』のラストシーンを意識していたのではないだろうか。あえて、『モダン・タイムス』を連想させるラストシーンを採用したのではなかったか。

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