◎本日、B29二三〇機が名古屋市を空襲
この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
本日は、『原爆投下は予告されていた』から、三月二五日の日誌を紹介する(五二~五五ページ)。
三月二十五日 (日) 晴
第五航空情報連隊転属以来はじめての休日の外出だ。考えて見れば、転属前の野高砲五十五大隊のときの昨年六月から八月までの九龍駐屯時代に一ヵ月一回、団体での外出以来のことで、嬉しさも言葉に出ない。広東は地理不安の上に、日本人個人の家へ行くということで安東兵長と共に出る。
この前は隊長車で通ったので気がつかなったが、山と山の谷の間のわが管報室から山沿いに越して出たところが、たんと墓また墓の連続で、中には見上げるような大きい墓もある。【中略】
川本さんの奥さんは、これからどうなるのでしょうかと聞く。一週間の知恵もあるが、ここでどこまで話してよいかわからず、
「これから内地は大変だと思います。第一、空襲が多いです。その点、ここ南支が一番よいところではないでしょうか。日本軍はとくに作戦は考えてないし、蒋介石軍も動くに動げず。いうならば、日本中の一番の避難地かも知れませんよ」と自分はいった。
十一時に行って三時ごろまで、二人とも本当によく呑みよく食べた。酒も老酒【ラオチユー】が一本あったのを空けたので、足許もふらふらしていたが、航空隊の営門歩哨のところまで帰ったときは、普通の精気に戻っていた。それにしても有難いことよ。こんなにしてくれる隊長があるだろうか。隊長には仕事でお返ししよう。
午後五時、隊長が情報室におられると聞いて御礼の挨拶に行く。ここで安東兵長は、明日付で南支軍団司令部の情報室に行くことを聞く。要するに、今日は安東兵長の送別会と自分の歓迎会をやってもらったようだ。安東兵長の席は五航情〔第五航空情報連隊〕のままで、五航情の窓口だそうだ。ここで隊長は、
「明日二名の若い者を、黒木の部下につける。その者を貴様の思い通りに使って、与えられた任務を完遂せよ。交換器のことに一切文句はいわぬ。貴様の思い通りにせよ」といわれた。
午前八時から上山少尉が交換器勤務についていて、明日付で転属の安東兵長を夜の勤務にはつけられないので、自分はそのまま、夜の勤務につくこととした。眠くなったら、覚醒剤を呑むことにして勤務につく。
午後九時ごろまで隊長も上山少尉もおられた。が、相ついで退出された。はじめての夜勤でどうなることかと思ったが、昼間のように隊長も上山少尉もおられないので、気分的にもたしかに楽である。それに第一、電話がかかって来ない。
そんな中をまったくの突然、午後十時すぎか、ニューディリー放送がか流されてくる。
――こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべきところの晴報によりますと、本日早朝より米軍B29二百三十機は名古屋市を空襲し爆撃致しました。繰りかえし申しあげます。……。――
この間から三百機、三百機、二百三十機と、B29はなぜこうも名古屋地区ばかり攻撃するのだろうか。夜はふけるが、頭の中は今日の楽しい一日のことはすでになく、内地への二百三十機、三百機の連続爆撃は想像すらできない。が、その想像すらできない空爆という恐ろしい事実が、現実に毎日繰り返されているということを考えると、果たしてこれからどうなるのだろうと思う。本当に敵の物量の大きさ、多さに度胆〈ドギモ〉を抜かれたような気がする。