礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

帝都空襲の報告で大達茂雄内相にヤジ

2016-03-10 05:18:18 | コラムと名言

◎帝都空襲の報告で大達茂雄内相にヤジ

 今月七日のコラム「1945年3月9日、首都圏にB29が飛来」からの続きである。中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)から、七一年前(一九四五年)の三月一〇日から一二日までの間の著者(当時・国務相秘書官)の「日誌」を紹介してみたい(一七二~一七五ページ)。

 三月十日
 関東大震災以上の規模で、帝都の下町一夜にして灰燼に帰した。被害は正に甚大である。罹災者は百万人を突破し、消失家屋、三十万戸、死者は判明しただけでもすでに三万余、傷者数千を数へる。今度の大戦以来、都市空襲の惨害は、欧州で幾度か伝へられたが、僅か百機内外、三、四時間内にこれほどの災害を出した例があらう〔か〕。
【一行アキ】
 明日の総理議会演説を控へて、演説草稿が、軍の反対に遭ひ、突然、書き換へといふことになつた。総理自らの草稿が、理由の何たるを問はず軍務局の一言で殆ど全文が取り消しになるとは何たることであらうか。

 三月十一日
 議会再開。
 帝都が悲惨な情況を露した〈アラワシタ〉直後だけに、議会の論議なるものが一層、空虚に感じられる。衆議院本会議で表はれた雰囲気では、議会の気持ちはすでにこの内閣から離れてゐる。その議員どもは大多数、国民から遊離してゐる。議会で何をしようが、国民は大して眼もくれない。議会は国民から離れ、内閣はその議会から見離されてゐる。全くチグハグな戦列である。
【一行アキ】
 帝都空襲の情況報告で大達〔茂雄〕内相は盛な彌次〈ヤジ〉に会つた。小磯総理の答弁にも彌次が入る。杉山〔元〕陸相の演説は、硫黄島栗林〔忠道〕最高指揮官の報告の点を除いて一度も拍手を受けなかつた。米内〔光政〕海相は演説の最後に拍手を受けたのみである。
総理の演説草稿は陸軍の要求で一部陸軍にまはされたため、すつかり駄目になつたのである。陸軍々務局の主張は、
 一、はじめ、陸海両相の戦況報告は行はれない予定であつた。それで総理の演説に、戦況が織りこまれることについて陸、海軍とも諒解したわけであるが、予定が変更され、陸海両相の戦況報告があることになつたので、総理の演説中戦況にふれる点は簡略にしてもらひたい。
 一、総理の演説は、力強く東亜に呼びかけるものでなければならない。総理の謙譲な気持ちは滲み〈ニジミ〉出てゐるがこれが不満足である。
 一、離島作戦にふれてゐるが、これは前内閣〔東条内閣〕を誹謗してゐるやうに受取られる懸念がある。内閣が変つても政策は一貫してゐるべきものである。殊に、緒戦の戦果に酔ひはしなかつたかといふ如きことを総理が言ふのは困る。
といふのである。石渡〔荘太郎〕書記官長もこの軍の意見に賛成したため、総理としては如何ともなし得なかつた。
 見解の相違といへばそれまでである。然し、これから取り返へしのつかない日一日が続く。物を固定的に見、行きがかりに捉はれてゐては間に合はない。すべて反省の上に立つて、将来を見とほさねばならない。国民に戦局の実相を知らせ、国民とともに国の危期を打開せねばならぬ秋〈トキ〉である。
しかし、今の情況は、総理大臣は統帥に対しあらゆるサーヴイスをすればよい、.政府は統帥部の意のままに動きまた動かねばならない、といふことである。

 三月十二日
 地方の人心は非常に悪化し、食生活の困難、加ふるに戦局の重圧で、反官、反軍思想が彌漫してゐる。前大戦末期におけるドイツの国民士気よりももつと悪いかもしれない。これをどうするか。譬へれば、日本は内科医がすでに匙を投げた病人である。外科医は、切開をすれば或は助かるかも知れないとの診断を下してゐる。さういふ重態であると。さふ思ふ。

 この日誌を読んで唖然とした。一国の首都が空襲され、壊滅的な被害が出ているというのに、権力の中枢においては、首相の演説内容をめぐって、不毛な政争がおこなわれているのである。
 こんな政治情況で、日本が、列強を相手にした戦争を続けていられたのは不思議だ、という感想を持つ。一方で、こうした政治情況だったからこそ、日本は、列強を相手にした戦争を選択せざるを得なかったのではないか(国内の対立を外に向ける)、とも思った。

コメント
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