礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小林躋造の国務相辞任と翼賛政治会

2016-03-01 02:56:38 | コラムと名言

◎小林躋造の国務相辞任と翼賛政治会

 先月二四日のコラム「緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲」からの続きである。中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)から、七一年前(一九四五年)の三月一日~四日の著者(当時・国務相秘書官)の「日誌」を紹介してみたい(一六七~一七〇ページ)。

 三月一日
 小林〔躋造〕国務相の離任が発表された。小林翼政〔翼賛政治会〕総裁は今後、裸になつて新党問題にぶちこむためであるといふ。議会で散々もんだ末、翼政自身の問題に立ち戻つた、その新党問題である。小林総裁の立場は真に同情に値するが、さりとて、新党結成のため翼政会が実質的に変質し、解体することは決して簡単には行くまい。
 三月二日
 定例閣議は正味四時間半もかかつた。これまでの長時間談議の記録である。問題は航空機工場の国営に関する件であつた。その大綱が決定され、手始めに、中島飛行機工場から着手されることになる。
【一行アキ】
 最近の最高戦争指導会議は、現戦局について大略次の如き結論を下した。
一、硫黄島攻略とともに、米軍は本土攻撃作戦を開始すべくその時期は凡そ六月ごろであらう。
一、ソ連の日ソ中立条約廃棄通告は必至とせねばならない。
一、ドイツの崩壊は近き将来の問題である。
【一行アキ】
 戦況判断として、極めて常識的結論である。ただ、国民の期待するものはその結論に対しいかなる戦争指導を決定したかといふことであるが、この点についてはなほ決定を見てゐない。
 三月三日
 上海の繆斌〈ミョウヒン〉がいよいよ近く上海発、東上するはずであるとの連絡が総理のところに達した。小磯総理の諒解を得て渡支、さきに帰京した山縣初男大佐が今度の場合、橋わたしとなつた。山縣大佐は上海で偶々、機会があつて繆斌に会見し、全面和平問題を協議、その結果を先日〔二月一六日〕小磯総理に報告したのである。支那総軍も、小磯総理からの希望で、繆斌の渡日に同意したものであらう。
 三月四日
 陛下の大号令をお待ちする。陛下の大号令による以外はもはや時局を乗り切る術はない、大御心を体し、陸軍も海軍もすべてが反省する。日本の再出発である。といふ意見が、抬頭してゐる。
 一方、戦局が切迫するにつれて、陛下の御意思として、色々なことが伝はつて来た。その主なものは次の三種である。
一、陛下の御決心は拝察するだに畏れ多いことであるが、たとへ国民が十万人にならうとも、その先頭に立たれ、あく迄、戦はれるといふことである。
一、陛下が最も心痛遊ばされてゐることは本土と国民を護れといふことである。そのためには皇室のことは考へずともよい、外相としても、このために努力せよと仰せられた。
一、新党問題について、小林総裁が奏上した時、「新政事結社と大政翼賛会とはどう違ふか、同じやうなものではないか」との御下問があつた。
 最初のものは、軍部方面から伝はる噂さである。何れにしても、陛下の御意思にまで、触れるに至つた情況は、戦争の末期的様相で、深刻な事態の反映である。

 ここで語られている政治状況は、きわめて「わかりにくい」が、とりあえず押さえておくべきことは、「本土決戦」を目前に控えて、政治の中心においては、こうした「わかりにくい」政争というか、根の深い政争が発生していたという事実である。なお、ウィキペディアの「小林躋造〈セイゾウ〉」の項、「翼賛政治会」の項を参照されたい。

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