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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

岩淵辰雄と近衛文麿

2014-01-16 05:34:45 | 日記

◎岩淵辰雄と近衛文麿

 あいかわらず、長尾和郎の『戦争屋』から。同書のカバーにある「著者の横顔」は、岩淵辰雄の筆になる。これは、一昨日のコラムで紹介した。
 では、長尾のほうは、岩淵辰雄について、どんなことを書いているのか。本日は、それを紹介してみよう。「馬場恒吾と岩淵辰雄」という文章の一部である。

 馬場恒吾と岩淵辰雄
【前略】岩淵辰雄の家は、杉並の馬橋だったが、岩淵が和平運動で吉田茂とともに憲兵隊にひっぱられているうちに、家は空襲でやられた。敗戦のときはまったくの裸一貫だったという。
 岩淵辰雄は腎臓からくるふきでものに苦しんでいた。栄養障害に起因する病気であったが、岩淵は憲兵隊にひっぱられたこと、家を焼かれたこと、無一物になって敗戦を迎えたことなど愚痴っぽいことはただのひとこともいわなかった。
「長尾君、敗戦で古い日本はもうないのだ、新憲法をつくらねばならない、これを阻むものこそ日本のガンなのだ」と、激烈な口調で岩淵は語った。傍〈カタワラ〉の奥さんが言葉をはさんで「うちは人の悪口ばかりいうので困ります。そのうちにまたひどい目にあうから……」と、岩淵と私をぐっとにらんだが、岩淵はそれに答えなかった。私は当分の間、毎月〔雑誌『新生』に〕執筆をねがい、岩淵も心よく承諾してくれた。
 憲法改正が問題になってきたころ、呼ばれるまま岩淵を訪ねたときのことだった。「近衛〔文麿〕は憲法改正をやりたがっているが、これを阻んでいるのは木戸〔幸一〕だ。木戸は東条〔英機〕をひっぱり出した張本人だが、近衛に反対しているのはけしからん」といって、今月は「木戸内府の責任」をかくといった。その雑誌が出ると、アメリカの記者が数人、その転載を私に申込んできた。それから間もなく、木戸は戦争責任にとわれて巣鴨の人となったことはいうまでもない。近衛公はその数日前に自殺した。
 その日の朝、私はまた岩淵を訪ねると、岩淵は「近衛は死んだよ」、ぷつりそういって黙してしまった。憲法改正を推進する綱はこれで切れたのであろうか、私も黙然として辞した。【後略】

 ここでは触れられていないが、近衛に憲法改正案の作成を働きかけたのは、岩淵だったらしい。しかし、近衛の改正案が保守的だったことに失望し、岩淵は、一九四五年(昭和二〇)一一月以降、高野岩三郎の憲法調査会に参加したという(ウィキペディア「岩淵辰雄」による)。
 近衛文麿の自殺は、同年の一二月一六日のことであった。近衛にとっては、憲法改正案の件で岩淵に見放されたことは、大きな痛手であったに違いない。このことが、自殺の遠因となったという見方もありうるだろう。近衛の自殺について、岩淵は、「近衛は死んだよ」と言ったきり、黙してしまったという。このとき、岩淵は何を思っていたのか。長尾が「黙然として辞し」てしまったのは、「雑誌編集者」としては失格である。
 参考までに、ウィキペディア「岩淵辰雄」の項の一部を、そのまま引用しておく。

 敗戦直後には日本人による自主的な憲法改正(新憲法制定)をめざし近衛〔文麿〕に憲法改正案を作成するよう説得する。しかし彼の案が保守的内容であったことに失望し、11月、高野岩三郎を中心とする憲法研究会に参加、民間からの改正案作成に従事することとなった。彼〔岩淵辰雄〕の改憲構想は天皇から大権を除去して国民主権を実現し天皇は象徴的存在にとどめるというもので、同年末、研究会はその案を盛り込んだ「憲法草案要綱」を発表した(その後「要綱」は、これを入手したGHQによって検討され「マッカーサー草案」の内容に影響を及ぼした)。

 なお、この箇所は、福島啓之氏の研究(二〇一二)http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/51771/1/pas012009.pdfを踏まえており、信頼できると判断する。

コメント (2)
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