◎西村貞陽、2名の清国人鞣皮工を開拓使に招く
本日も、『開拓史裁録』から。
昨日は、「明治九年一月三一日」付の「乙第十一号 清国人雇入之義上申」という文書を紹介したが、その二か月後の「明治九年三月三一日」の日付で、「乙第弐十弐号 清国人雇入之義上申」という文書が出ている(インターネット上では、「清国人張尚有外一名、雇入ノ件」)。文書を発したのは、「開拓長官黒田清隆」である。
本文の全文は以下の通り。
清国人雇入之義上申
昨年中開拓中判官西村貞陽清国へ被差遣候節別記ノ通皮革。鞣硝ノ為メ同国人張尚有外〔「以下」を消して〕一名当使エ〔「別記ノ通リ」を消して〕鞣皮工〈ナメシガワコウ〉トシテ雇入給料ハ毎一人一月金二拾九五円ノ〔「支給致」を消して〕約定ニテ現今函館へ到着候条此段。度上申仕候也
明治九年三月卅一日 開拓長官黒田清隆
太政大臣三条実美殿
原文では、「鞣硝」の二字の間に、「皮工トシテ」の五文字が追加訂正されているが、そうすると、「鞣皮工トシテ」が二回繰り返されることになり、かつ、文章もおかしくなるので、この追加訂正は無視した。ちなみに、「鞣」と「硝」は、ともに「なめす」という意味だという。
続いて、別記を見てみよう(ただし、「別記」の二字はない)。
明治八年十二月一日ヨリ向六ヶ月 清人鞣皮工 張尚有
同断 同 王直金
以上
清国人農夫の給料が月額金五円七五銭だったのに対し、清国人鞣皮工の給料は月額二九円。その差は、実に五倍以上である。これはやはり、鞣皮工が専門職だったためであろう。
清国から鞣皮工を招いたのは、やはり西村貞陽であった。彼が清国の鞣皮工を招いた事情は理解できなくもない。しかし、それに先立って、一〇名もの農夫を、わざわざ清国から招いた事情がよくわからない。