◎日本人に毛皮のなめし技術を教えた清国人・張尚有
インターネットで、「張尚有」を検索したところ、『函館市史デジタル版』がヒットした。その通説編第2巻第4編「箱館から近代都市函館へ」の第9章「産業基盤の整備と漁業基地の確立」の第1節「諸工業のはじまり」の「1 官営工業の創出」の「函館製革所とお雇い外国人」の部分から、少し抜き出してみよう。
明治5年〔一八七二〕2月黒田〔清隆〕次官は、ケプロンの進言に基づいて北海道開拓着業のために必要とする外国人技術者の雇用について政府に許可を求めた。そのなかに語学教師や汽船の船長、機関士、牧牛術などの技術者とともに皮師をあげている(「開日」)。開拓使は道内の豊富な皮革資源に着目し、外国人の製革技術者を雇用して、製革所を設立運営しようとしたのである。伺いが許可になると直ちに人選に入り、「お雇い皮師」としてアメリカ・ウィスコンシン州出身のマティアス・ウェルブ(Werve,M.)が採用された。この人選の経緯は不明であるが、他の「お雇い外国人」の場合はケプロンが人選の過程に大きく係わっている場合が多いことから、あるいは同じ事情によったのかもしれない。【中略】
明治8年〔一八七五〕従来の靴や馬具用を使途とする製革の製法のみでは需要に限度があるとの判断から毛皮のなめし業も興した。同年5月西村貞陽は清国に視察にでかけたが、その際に張尚有と王直金の2名をなめし皮の職工として雇用することにした。1人月29円、半年間契約で採用されたが、両人は翌9年〔一八七六〕3月函館に着任した。彼らの手がけた毛皮のなめし製品は評判となり需要に応えたようである。半年の契約満了後、王は帰国したが、張はさらに契約を延長し、10年〔一八七七〕11月30日まで在函した。この間、9年3月「開拓使分局章程」の施行により、製革所は民事課勧業係の所管となり、さらに7月には懲役場(従来の徒罪場を改称)に所管替えとなった。そのため囚人中15、6名を選び、張に伝習するに命じたが、なめし皮工として来日したと主張したため、囚人を張に付けて使役させるにとどまった。なお明治10年1月の「函館庁員分課誌」によれば製革所修業人として中野才吉(月俸10円)、中村昌吉、保倉仁三郎、一ノ瀬忠一(以上同7円)、福井次郎、笹原忠寿(以上同5円)とある。張のなめし皮の製法については開拓使のお雇い外国人の黄宗祐〔通弁兼清国人取締〕が聞き取りして記録したものがあり、それには干皮と生皮の2種のなめし方が述べられている。張の帰国後は囚人のうち製法を少々会得したものがあり、なめし業を継続できた。【後略】
これによって、日本に、毛皮のなめし技術を教えたのは、清国人の張尚有と王直金のふたりであったことがわかる。
なお、この箇所を含め、『函館市史デジタル版』の記述は詳細であり、かつ、非常に興味深いものがある。特に、明治初年において、函館という港湾都市を中心に、日本と清国との間で、活発な交易あるいは文化交流がおこなわれていたのは意外だった。明日は、話題を変える。