礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

敗戦直後の京都と河上肇

2014-01-15 08:08:17 | 日記

◎敗戦直後の京都と河上肇

 本日も、長尾和郎の『戦争屋』から。同書中の「印象に残る河上肇」という一文は、敗戦直後の京都に、河上肇を訪ねた時のことを回想したものである。全文を紹介する。

 印象に残る河上肇
 十一月〔一九四五年〕のある日、森戸辰男が河上肇を訪ねたらどうかといわれた。創刊〔雑誌『新生』〕そうそうなので、私の日程はいっぱいで、容易に京都いきは実現しなかった。だが、森戸辰男が大毎〈ダイマイ〉〔大阪毎日新聞〕の公演会で大阪にいくというので、それではと大阪商工会議所で森戸辰男と落ち合う約束で、私は京都に向った。
 戦災をまぬかれた京都の町は、非常に魅力的だった。眼にはいるものが、なにもかも懐かしく敗戦のなまなましい現実はどこにもなかった。四条に宿をもった私は、やっと昔の日本にたどりついたような感慨をおぼえてならなかった。和服姿の女性も町にはんらんしていた。美しい祇園の舞い子姿も眼にしみるようで、その風物のどれもが焼けただれた東京とちがっていた。
 宿についた翌日から、私は京都帝大の高山岩男〈コウヤマ・イワオ〉の研究室に通った。高山岩男から河上肇の住所をきいて、三高横の河上肇を訪うた〈オトノウタ〉のは、その翌日だった。
 その日、私は三高の学生に河上肇の家をたずねたが、どの学生も河上肇を知る由もないのにはおどろいた。戦争というものは、私たちの学生時代と大きな距離をつくってしまったのか。戦争にかりたてられた学生たちであっててみれば、この老マルクス学者は縁のない存在で、脳裡に焼きついているのは、あの東条〔英機〕その他の戦争屋のことなのだろう。
 私と学生が立ち話していると、六十になろうという老婆が横から「河上先生のお宅はこちらです」と、私に話かけてきた。道々、老婆は河上肇の近況を語ってくれた。いまは病気で床についていること、戦争中は配給にもこと欠く始末で、近所の人たちが野菜や魚をわけ合って、河上肇にお届けしたことなど、老婆は涙ぐみながら語るのであった。
 私は老婆のいう通り、すぐ附近に縁づいている河上肇の一人娘のよし子夫人を訪うた。よし子夫人は、私の訪問を非常によろこばれ、東京の新聞・雑誌社から父を訪ねたのは、私がいのいちばんで、父も非常によろこぶことでしょうと、ていねいなあいさつであった。だが、父は二・三日前、大毎記者と会ってからひどく興奮して床につくようになつたので、明日わたくしがご案内するからおいでくださいとの言葉だった。
 翌日よし子夫人は、近くにある河上先生のところへ、私を案内してくれた。長屋みたいな家の造りで、下は六畳、三畳くらいの貧しい家で、河上肇は二階の四畳半くらいの部屋で床についていた。奥さんからの注意で、面会は二、三十分にかぎられていたが、河上肇は眼をつぶったまま、よくきてくれた、感謝しますと、一言いって黙ってしまわれた。私は原稿依頼の一言も吐かないうちに、涙がこみあげてきてならなかった。出獄した徳田球一や志賀義雄の感激、河上肇も同様なのであろう。ながいながいたたかいであった、私は河上肇の顔をしげしげとみているだけで、胸つまる思いだった。初対面の私でも、河上肇は心よく迎えてくれただけでも、私は満足だった。「先生、お回復をいのります」ただ一言いって、とめどもなくながれる涙をおさえて、そこを辞したのである。
 私はそれから数日後、祇園の清水雪に高山岩男らを招待した。高坂正顕〈コウサカ・マサアキ〉は上京中だったので、高山岩男と木村素衛〈モトモリ〉が見えられた。京都滞在中の私は、好きなものを注文すれば宿はなんでも都合してくれたので、清水雪の料理はさほど豪華とは思わなかったが、皿に山積りの牛肉を見て、高山岩男はこれは蒙華だといってよろこばれた。
 この日の酒宴は非常に印象的なものがあった。高山岩男は酔うことを忘れたように、戦争中の、西田幾多郎〈キタロウ〉博士のことを頻りと語った。獄死した三木清のことも話題にのぼった。私は三木清の好きな愛染かつらの“花も嵐もふく宵は”を歌って、在りし日の三木清を偲んだ。
 私の滞在は二週間におよんだ。天野貞祐〈テイユウ〉・滝川幸辰〈ユキトキ〉・恒藤恭〈ツネトウ・キョウ〉・末川博・佐々木惣一らを、つぎつぎに訪問したが、私は一本の原稿もとれずにしまった。しかし、河上肇にお会いできたことだけで、私は満足した。

 最初に、この文章を読んだのは、まだ高校生か大学生の頃だったと思う。そのときは気づかなかったが、今、こうして書き写してみると、用字や言い回しにおいて、推敲の余地があるところが少なくない。たとえば、「初対面の私でも、河上肇は心よく迎えてくれただけでも」というところは、私が編集者だったら、「初対面の私を、河上肇が心よく迎えてくれたことだけで」と直すと思う。
 なお、そのこととは別だが、「六十になろうという老婆」という表現に、時代の流れを感じた。

今日の名言 2014・1・15

◎心の中のリトル本田に聞いた

 サッカーの本田圭佑選手の言葉。本田選手は、移籍の理由を聞かれて、次のように答えたという。「簡単なことだ。心の中のリトル本田に聞いた。おまえはどのクラブでプレーしたいのか、と。リトル本田が、ミランでプレーしたいと答えた」。本田選手の言う「リトル本田」というのは、少年時代の自分という意味だという。1月13日の東京新聞「筆洗」より。 

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