3104丁目の哀愁と感傷の記録

日々生きてます。自分なりに。感じた事を徒然に書きます。素直に。そんな人間の記録。
since 2008.4.4

実際、驚いた

2009-04-22 23:27:31 | 徒然
最近の日記はなめきった内容ばかりで、
自分で読み返して実際、驚いた。

だから、今日の日記は少し真面目なものにしようかと思う。

母国語を持ち、
その上で他の言語を学ぶ学習者は必ず、
母国語と第二言語とのギャップに混乱させられる。

第三言語異常になると、
その言語に関するカルチャーショックは軽くなるが、
最もカルチャーショックが大きいのは第二言語を学ぶ時だろう。

俺は日本語が好きです。
何故かというと純粋に日本に生れて、
日本語を母国語として、
日本語の言語直感を持って、
それを20年以上に渡り使い続けてきたからだと思う。

で、俺の第二言語はなんなんだろうと考えた時に、
やっぱり英語なんだろうな。

別に英語を馬鹿にするわけではないけど、
どうしてもこれは無いだろうとか、
更には、
向こうの文化、歴史、宗教に根ざした表現なんかは
時には理解しかねる時もあるわけだ。


そんな中、
これはどう考えても英語が正しいだろって表現も存在する。

一番俺が、
これは英語が正しいと思うよ、と感じたのは、
これ。


The bad news surprised me.


絶対これでしょ。

普通に考えて“私は驚く”って表現があると思うか。

俺ら人間って驚くのか?

何を言ってるか解る?

俺ら人間に、私は驚く、って状況があるのかって話。

俺らは驚かないと思う。

絶対に、俺らは“驚かされる”んじゃないか。


当たり前だろ。

これは間違いないと思うんですけど。


大学入試では頻出の表現だが、
英語では、
surprise
please
interest
disappoint
shock
entertain…

といったいわゆる「感情を表す他動詞」は
人を主語にはとらない。

必ず、何かが、人を驚かす、という形になる。

逆に人を主語にとったら人は、何かに驚かされたって表現になる。
必ず、受身にしなくてはならない。
ここポイント。


で普通に考えてもらえばわかると思うんだけど、
人の心の中に、ある感情が起こる時には、
絶対に外部的な要因が無くてはならないんだ。
これは絶対だと思う。

何も無くて驚くか。
何も無くって急に驚くやつはちょっと精神的にまいってるんだと思う。

何も無くて急に失望するか。
何も無くって急に失望するやつは、
ちょっと人生に疲れてるんだと思う。


絶対に驚く時は、
何かに驚かされているわけであり、
失望する時は、
何かの要因が人を失望させたわけ。

そもそも驚くって表現があるのが間違い。

だって驚くことって自発的にやることじゃないじゃん。
自発的に驚こうとしてるやつとか意味不明。
てかそもそも自発的に驚く事なんてできるわけ無いじゃん。

簡単に言うと、
驚く、失望するってのは、
自分でよしやろうと思ってできることじゃないんだ。

自発的にやったら、
それは確実に演技である。

じゃあ、
「俺はお前を殴る。」

自発的に殴ったら、演技か。
そんなわけねーだろ。
この段階で決定的に違う。


要するに先の話に戻って、
こういった人の感情に変化を及ぼす表現ってのは、
絶対に何か要因がそうしているのであって、
俺らは常に驚かされる側なのだ。


けど、日本語には堂々と
俺、驚いたよ
という表現が存在する。

君には本当に失望させられたよ…

映画とかでありそうな台詞だが、
この表現に関しては絶対的に正しいと思う。


けど、
俺は世間に失望したよ…

これはおかしい。



なんでなんですか?
日本語に詳しい人、誰か教えてください。
日本語は人を主語に置きたがる性質を持っているからですか?
無生物主語を嫌うからですか?

去年の中3で一人で議論したけど、
結局俺自身が、なぜだか解ってなかったな…

例えば言語を誰かに教えるとなった時は、
常にこの様なことを疑問に思って、
考えなくちゃならないんだろうな。



まあ、そんなことはいいとして、
言葉って個性があって、
誰にでも使えて、
使い方によっては人を泣かすこともできるし、
怒らすこともできるし、
意味や意思を持たせたり、

なんてすげえものなんだと思うよ。



おしま、い。


寝るわ。



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