private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第17章 5

2022-11-27 18:31:07 | 連続小説

 すでに西野には、なすすべがなかった。
 今となってはそれをどのように指摘しても、安藤の気持ちを変えるなどできるはずもなく、変なコトを言えば余計な怒りを買うだけだ。
 目に見えて譲ることはしないだろうが、最終的には1コーナーは相手に先行させるだろう。もはや頭の中では山間部でどうやって抜くかを考えているはずだ。それも『できるだけ、効果的に』。
 もうこの時点で、心理戦をついてきたナイジの目論見は達成されており、その手法に西野も舌を巻く。あの若造がどこまで安藤を知ったうえで吹っかけてきたのか疑問であり、こうなった時の安藤が爆発的な速さを発揮できると、西野は他の誰よりそれを知っている。
 とにかく変に注意を促がして機嫌を損ねられるのだけは禁物であり、このままの気持ちを保った状態でレースにのぞませたほうが効果的だ。
 それは同時に、西野にかなりの負荷を強いられることを意味し、早くもシートベルトを握り締める手に汗が滲んできていた。
 不破はそのままオースチンの前も素通りしていく。我ながら上出来だったと自画自賛しているのか、ほくそえみながらナイジの目の前では、こっそりと親指を立ててサインを送るほどだ。特に山間部の辺りのくだりではアドリブでよくできたものだと自画自賛していた。
 それとは別に、本来の目的であるナイジがなぜ隣にオンナを乗せることになったのかについては、なにひとつ情報を得ることはできないままであった。
 あの時の不破は、八起から説明を聞いて自分の耳を疑ってしまった。
『オースチンには志藤先生のところの看護助手を乗せている。その件については社長は承諾済だから止める必要はない』と八起から言われた。理由としてはケガをしているドライバーの状況が悪化すれば、つまりレースができない状況と判断すれば、レースを中止する判断をするためだとも。
 不破の疑問、反論を聞くこともせず、八起はそれだけを伝えて立ち去ってしまった。そこまで釘を刺された不破は、西野が呼ばれてピットを離れたどさくさに紛れてナイジの元へ向かって、すこしでも状況を把握しようとした。
 素人にケガでもさせたらどうするつもりなのか、不破が一番心配した部分はそこであった。いくら社内の従業員とはいえ、対外的に聞こえが悪いのは間違いないはずだ。何よりも安全を重視してきた馬庭にしては安易な決断と思えた。
――馬庭さんも思い切ったもんだ。いくら志藤先生の身内だとはいえ、同乗を許可しちまうとは。――
 ナイジのケガについても自分はなにも知らされていない。どこをどうケガしていて、どれだけレースに影響するのか。そんなことを本人聞いても、なにも答えるはずもなく、いまとなっては、ただ大事にならないことを願うしかなかった。
 上機嫌を装うそんな不破がピットに戻っていくのを見て、本意を知らないナイジは首をひねっていた。
「なにやってんだか。こりゃ、あんまり期待できそうにないな。不破さん舞い上がっちまってるぜ」
 ステアリングに手を組み、あごを載せた体勢で、ナイジは失笑していた。それでも、自分の蒔いたタネが1コーナー争いにどのように影響を及ぼすのか楽しみであり、選択肢を広げるためにあれこれとアプローチの方法を思い描いていていた。
「それにしてもさ、よかったよな。ロータスの助手席のヤツより体重軽いから幾分は有利になったし」
 満足そうにひとり納得して言うナイジに、一度ならずとも、二度目のデリケートな話題にマリは片目を細める。
「 …えっ、今度こそマリの方が重いのか…?」
「ナ・イ・ジ・ィー、こんどは左手つねって欲しい?」
「いえ、いいです… 」
 もはや隠れる必要がなくなったマリは、シートを元に戻してシートベルトをした。ロータスの方をチラリと見て口をつく。
「これで本当に1コーナーで譲ってくれるのかしらねえ」
「そりゃさ、数メートルも差をつけられて譲られれば八百長になっちまうし、オレもそんなこと望んじゃいないよ。それよりね、ここで大切なのは1コーナーで無理をして絡んだり、オーバーランしてそこでレースが終わっちまわないようにすることだ」
 ナイジの真の意図はそこにあった。誰だって1コーナーを取った方が有利になるとわかっている。特に相手の力量を知っていればなおさらのことで、アドレナリンが高騰して周りが見え無くなれば、例えインをキレイに差しても、アウト側から焦って覆いかぶさってくることは往々にしてある。
 ナイジの言葉で、ここで無理をせずにスペースを開けてもいいという選択肢を増やしておけば、変な意地を張らずに1コーナー以降の闘いを視野に入れることができる。
 それは、同時に自分も冷静にさせるためでもあり、何にしろ、それを実行するためには相手と競った状態で1コーナーまで行くことが条件だ。
「あのさ、多分こんなこと言うと変なヤツだって思われるだろうけど… 」
「大丈夫よ、もう十分変なヤツだって知ってるから」
「 …うっ、そこは、そんなことないよとか言えよ」
「はいはい、そんなナイジが好きよ。 …これでいい?」
「・・・」
「なによ、そこで黙らないでよ。言った方が恥ずかしくなるじゃない」
 そう言ってマリは手をバタバタさせて顔を扇ぐ。ナイジも照れ隠しもあり顔を下げてしまう。
 これまでの自分であればもっとピリピリとした状態でレースに臨んでいた。それが当たり前だし、自分の力が発揮できると思っていた。
 無理やり引っ張ってきた手前、マリに主導権を取られても良いように言わせて、気が抜けるほどのリラックスした中で闘いに入っていくことで、いったいどんな変化が起きるのか、それを楽しめている自分がおかしかった。
「あっ、あのう。オレが言いたかったのはね。誰も前にいないストレート走ると、なんだか別世界にいるような、それでいて普段では味わえないような快感に包まれるんだ。なんかね、この道を自分のモノにしたような気になって。自分の能力が無限に増殖していく感覚になって、新しい細胞が生み出されてては新たなチカラが宿っていく。だから練習走行でもそんな状況を作り出し、何度も練習を重ねた。それがまた再現できれば、オレはきっと… 」
 顔を上げてそう言うナイジがキラキラとした顔になって、マリはなんだかおかしくてしかたなかった。顔に出して笑えばきっと馬鹿にされていると誤解されると思い顔を伏せる。
「 …オレは、ロータスより前に出られるんだ。やっぱり変なヤツだ」
 おかしく思えたのは、めずらしく自分の気持ちを素直に口にするナイジの姿が新鮮だからであって、そうだからこそ、それは本心であり、本当に実現できることなのだと思えた。
「それをスキになるアタシも相当変なヤツね」
 ナイジはニヤリと笑い、肯定するように首をタテに振る。
「そこは、そんなことないって言いなさいよ」
 マリはそんなナイジの言葉を聞きながら、ナイジは毛嫌いしているあのタワーの王である馬庭と、実は同類であると思えていた。あれほど忌み嫌うのは、それはあの男が自分が求めているモノがまったく同じで、それを自分よりうまく手にしているからだと。
「そうだな。そんなマリが… 」
「はいはい、言わなくていいから、言い訳できないぐらいに1コーナーが取ってそれを証明しなさい」
 そんなことは決して口にはできず、ただレースの無事を祈るしかない。
「おうっ」
 そこで場内にアナウンスが流れる。
”ご来場の皆さま。大変長らくお待たせいたしまして申し訳ございません。今回のエキシビションレースは十数年ぶりの対面レースとなります。安全性を考慮するため甲斐ツアーズからコ・ドライバーの同乗を要請されており承認しておりましたが、ロータスのドライバーからも公平を期すために同様に同乗するとの申し出があり、それを承諾することになりました。”
 コ・ドライバーの同乗の理由が安全性に対してどう必要なのかよくわからないまま、ただ自分の有利を捨ててまで公平にするロータスのドライバーの男気に観衆は盛り上がっていった。
 そこに余計なことを考えさせるまも与えず、”それではスタートまで、1分前となります”と続いた。
 スタンドからはレース前の最後の確認でもしている思っていたところに、ロータスのナビに誰かが乗り込み、どういうことかわからないままだった。
 グリッド上で行われいた人の動きはそういうことだと納得がいき、いよいよスタートが近いと緊迫感が増してきた。
 不破に目線を合わさないまま出臼が近づいてくる。もちろん不破もすんなりいくとは思っていない。
「不破さん、いいんですか。何かあったら馬庭さんだけじゃなく、不破さんも責任は免れませんよ」
「へっ、どうせ、もともと短かった命だ、これだけデケえアングルが打てたんだ、それでヘタうっても仕方あるまい。オレにあずけといてくれ」
 最後は得意の言葉を吐いたが、ほとんどやけくそに近かった。その言葉だけを待っていたかのように、出臼は薄ら笑いをしながら自分のピットに戻っていった。どちらに転んでも旨みのある出臼は、不破の言質さえ取れれば良かったのだろう。拍子抜けの不破は首をすくめる。
「なんでえ、えらく簡単に引き下がったな。よっぽどうまく立ち回れる自信があると見えるが、あのよそ者達に寝首を掻っ切られんといいがな。まあ、コッチの状況もさして変わんねえか。オレの首がつながるも、切れるもナイジ次第ってことだ。しゃーねーな、アイツに賭けたのはオレなんだからな。やっぱりジュンイチにしとけばよかったかなあ」
 そんな中でも西田の言動や、安藤の動きを見て、このふたりの刺客は案外出臼とうまくいっていないと不破は薄っすらと感じており、そこが案外最後に利いてくればいいと密かに思っていた。