スタンドでは多くの観衆が遅れて登場してきたオースチンに一斉に視線を向ける。誰もがそのタイヤが特異であることに気付きはじめ指を差し、声を上げる。
「何だよあれ、あのタイヤ! 白く、何か描かれてるぞ」
「おおっ、白いラインが入ってんのか? どうなってんだ?」
「あっ、止まった! タイヤのマークだ。ああ、それが白くペイントされてるんだ」
「なんか、カッコイイな。あんなタイヤ売ってんの見たことないけど」
「新製品なのか? あんなの売ってたらオレも欲しいな」
そんな声が飛び交うなか、スタンドの一角に陣取っている濱尾は、難しい顔をしたまま両腕を組んだ姿勢を崩さない。安田は周りの反応を聞きながら、そのひと言、ひと言を耳にしては濱尾の顔をうかがう。
濱尾の元へ今日のレースの招待状が馬庭から送られてきたのは2日前のことだった。気が進まないまま安田に押し切られるようにレースを見に来てみれば、まさかこのような趣向が隠されていたとは思いもよらなかった。
好反応を示す観衆の声が濱尾に届かないはずもなく、安田の口から濱尾の発言を促がす言葉はかけずとも、濱尾が何かを言い出すのを心待ちにしている態度が見て取れる。
馬庭からタイヤのカラーリングの打診を受けた安田は、試してみる価値ありと踏み、濱尾に許可も取らず計画を進めてしまった手前、なんとしても直接の顧客となる観衆の評価を上げ、販売に結び付けなければならない。
今後は新製品のテストインプレッションとタイヤのマーキングを並行に行うことで、馬庭の会社へ共同企画費を発注することで、ビジネスの継続と拡大の足がかりにもしたかった。
実際そこまでの企画立案を持ってきてくれたのは馬庭からだったが、形式上は安田の提案企画ということで会社には稟議を出していた。安田がそれほどまでにして勝負に出たのも、今がまさに越えなければならない壁に立ち向かう時期と捉えていたからだ。
大きく肩を張り、そこから息を吐き出す。首を左右に振ると、相変わらず面白くなさげな固い表情のまま、やれやれといった表情で濱尾はようやく口を開いた。
「これがアイツの回答というわけか。まったく、一手も二手も先を行かれたな。タイヤのテストだけでなく、新製品の広告宣伝まで受け持ってもらえるとはな。それにしても上手いやりかたを考えたもんだ。注目度の高いレースに合わせて、今までにないタイヤの見せ方を披露するとは。クルマメーカーの裏方的な存在である我々タイヤ屋が、自分から名前を誇示するようなデザインを選択することはやりずらい。しかし、イベントの一環としてのお披露目であったり、お客からのオーダーであれば大手を振ってやることができる。ああ、あと、限定生産品なんて手もあるな。もしあのクルマが良い走りをしてくれれば、タイヤの評価にもつながるだろ。ふん、それじゃなにか、私達はアイツに商売のやり方まで教えてもらったというのか」
安田は濱尾の言葉をハラハラしながら聞いていた。ふしぶしには賞賛するような言葉がちりばめられているものの、全体の声調としてはそれが気に入らないとも取れる言い方をしているため、納得してもらえたのか計りかねている状態だ。
だが、犀が投げられた今、いつまでもご機嫌伺いをして仕事をしていくわけにはいかない、勝機ありと踏んだ安田は思い切って濱尾に進言した。
「あのう、濱尾部長。部長からはこのあいだの打ち合わせで、下請けとの付き合い方を提言をいただきました。もちろん私も概ねそのお言葉に賛同しております。しかしながら、もう一歩踏み込んだ関係を築こうとするならば、より能力があり展開力を持つ会社を相手に、こちらからの一方的なオーダーだけで仕事を終わらせるのは、お互いにとって不利益と考えます。実際に馬庭さんは私たちには考えつかないようなアイデアをお持ちです。しかも、今回その陣頭指揮に当たった方は、馬庭さんの側近を務めている春原さんという女性の方です。まだ女性の社会進出が難しい状況である昨今で、馬庭さんはその能力を見抜いて抜擢し、女性ならではの視点を大いに活用しています。それを包み隠すことなく堂々と彼女の成果として私に報告してくれました。これはウチのような頭の固いメーカーでは実現不可能な事例だと思います」
「もういい! お前の馬庭信仰は腹一杯だ」
声は荒げたものの、その表情は穏やかなものだった。安田は、どんな反応をすればいいものか考えあぐねている。
「わかっておる。もう、そこまで言わなくたって、私にもアイツの商才を嫌というほど見せつけられた思いだ。それに、お前の下した判断もな。だいたい、ここまでやっておいてよく言う。時代に逆行していたのは私の方だったのかな、大きい小さいは問題ではないのかも知れん。これからはお互いの利益につながる事案に対して、それぞれの強みを持ち合って商品化してく時代になるならば、今回の件はひとつの先例となるだろう。オマエが時代をそう読んだなら、自分の責任において、やり遂げてみるんだな。わたしから言うことはない」
最後はビジネスマンとして、上司として厳しい表情に戻っていた。
「 …部長」
「しかし、実際に現場に来てみて、あれこれ感心させられることばかりだ。オマエが馬庭さんに傾倒するのもわからんでもない。地方の草レースにこれだけの人を集め、多くのパーツサプライヤーとも良好な関係を継続する手腕。ビジネスは規模ではなく智慧であることをあらわしている。私たちが社内で机上の論理を述べているだけでは気付かないことが、ここには溢れている。じかに買い手の意見や批判を耳にすることが、どれだけ重要なことかあらためて教えてもらったよ。お前がここに入り浸るのも無理はないな。いい勉強をさせてもらっていると思うならば、それを会社に還元することも必要だ。くれぐれも飲み込まれんようにしろよ、あくまでも仕事は仕事だ。さあ、いいレースを期待しようじゃないか。最後の打ち合わせも終わったみたいだな、関係者がピットに引き上げていくぞ」
スターティンググリッドでおきたドライバー同士のやりとりは、スタンドからはレース前の最終確認でもしているように見えたのだろう。
「はい」
堅物だった部長が、自分と同じ目線で今回の案件を評価してくれたことは嬉しかったが、しょせんはまだ馬庭の手の中で遣われているに過ぎないのは自分でもわかっていた。
ここから一歩でも社会人として前に進もうとするならば、こちらからも意見をぶつけて双方が発展できる立案をまとめていかなければ、いつまで経っても馬庭の小間使いでしかない。
その状況は、引いては馬庭にも会社にも迷惑をかけることになる。安田は濱尾に一礼すると席を離れ、まずは周りで語られる生の意見を収集するために通路を歩きはじめる。
次なる展開をこちらから馬庭へ提案できるように、会話やひとり言の中から何気ない言葉を一言一句聞き漏らさないよう注意深く耳を傾ける。
その姿を目を細めて見守る濱尾には、口には出さなかったがもうひとつ感心していたことがあった。この商品企画は何か新しいモノを作り出したのではなく、いまあるモノを有効に活かしたという点だ。
ひとケタ生まれの濱尾には、商品が次々と新しく開発されていく今の社会情勢に疑問を持っていたところに、こうして考えかたひとつで、あるものを活かして効果的なアピールができることに感銘を受けていた。
それが若い女性の感性から生まれているならなおのことで、馬庭の懐の深さを認めざるを得なかった。
それとは別に、ひとつだけ気になる懸念も同時にあり、レースにおけるタイヤの役割は重要なものだが、タイヤのおかげでクルマが速くなったと認められることは少ない。
そのくせタイヤにトラブルがあれば、間違いなく悪い印象を与え、外的要因であってもすべてがタイヤの品質や構造のせいにされがちだ。
ましてや大事故につながる不具合でも発生させようものなら目も当てられない。タイヤメーカーがレース場で目立った広告を打ちたくても二の足を踏んでいるのは、そういった諸刃の剣をかかえているためで、最初から大風呂敷は広げずに、結果がともなった時に名前を売るといった後出しジャンケンのような宣伝活動を行い、これもまでもレースシーンの中では地道な下支えをするに留まっていた。
濱尾自身もこのままではいけないという危機感は持っており、安田がまんまと乗せられているこういったアピールの方法も打っていかなければいけないとは理屈ではわかっていた。
いままでと同じことを、他の競合企業と同じように、ただ、惰性のようにおこなっていては、知らないうちに誰からも見向きもされなくなり、気付いてから手を打っても後の祭りであろうと。今はまだ、どちらへ転ぶか読み切れないが、矢が放たれてしまったかぎり、安田とオースチンの健闘を祈るしかなかった。