ホームストレート、アウト側に待ち受けるロータスの内側のグリッドにオースチンを停止させる。安藤は待ちくたびれた様子で助手席側のウインドウに身を乗り出し話し掛けてくる。
「よう、よう。後から登場とはいい気なもんだぜ。シャレたタイヤ履いてきて、それで走るのか? へっ、サンドイッチマンのバイトも掛け持ちするとは器用なヤツだな」
なにしろマリのこともあり早くスタートしたいところであるのに、いやでも目立つ真新しいタイヤに興味を示して、安藤が声をかけてきた。ムダに時間を掛けたくないので相手にすることなく無視を決め込むナイジ。
その態度がかえって気に入らない安藤は、わざわざクルマを降りてオースチンに近寄ってくる。そんな安藤の動きを見て西田も、不破も、何事かとピットレーンから身を乗り出す。
「なんだよ、とっととはじめりゃ良いのに。プロレスじゃあるまいし、なんか言い合わないと走れないのかよ?」
「クルマの中から見るとこんな風景なのね」
ナイジがひとりごとのようにつぶやいていると、マリがシーツから顔を出して周りの様子をうかがっている。
「ワッ、ウワッ、なに? なに?! 隠れてろってっ」
「人が一杯だけど、あんまり見られてるって感じじゃないのね。別の世界を覗いてるみたい… 」
「マリ、オマエなあ… はーっ、どうする」
覗き込まれれば安藤の目に留まる状況に、さすがにうろたえる。あたまを抱え込みたくなりそうなナイジが、なんら手を考える間もなく、時すでに遅く安藤の視界にはしっかりとマリの顔が捉えられている。
マリを目にしても、その状況にたいして驚いた様子もなく、ひとりわかった風な体裁で何度もうなずいている。
「フーン、あの時も隣に乗ってたオンナだな。最初にやりあった夜、下り坂でルノーを挟み込んでかわしときに見た顔だ」
安藤はあの瞬間、ルノー越しにオースチンの車内をそこまで明確に見切っていたようで、ナイジにはそれほど余裕があったわけではなく、その言葉は圧迫を感じさせた。
異変を感じた西田が動こうとするのを、安藤は手を上げて制止する。オースチンを前から回り込み、ピットに背を向けてマリの存在を隠すようにして話しはじめた。
「でっ、どうすんだ。レース止めてこれから海にでもドライブに行くつもりか? 負けてハジかくよりそのほうがいいな」
「彼女は乗せて走るよ、必要なんだ」
ナイジはいつも変わらない口調でそう言った。それがかえって言葉に力強さを与え、いったい助手席のオンナがどう必要というのか、その言動の意味を探っていく安藤は、ピクリと眉毛を動かす。
「オマエが言う、あの時だって条件は同じだったんだ。シングルシートでなきゃ闘えないわけじゃないだろ」
ナイジに挑発されて安藤はなにか第6感に触れたらしく、頭をよぎる打算をすぐに言葉にしていく。西田がいれば状況は変わっていたはずで、そこはナイジに有利にはたらいていった。
「なるほどいいだろ。ワケありなのは察してやるぜ。オンナが必要な理由がなんであろうとオレにはどうでもいいことだ。西田っ!」
さきほどまで制していた西田を呼びつける。西田は安藤が何かを勝手に進めているのではなないかと気が気でなかった。問題があれば正さなければならない。出臼が鋭い目つきで見てくる。なにかあれば責任を取れといわんばかりだ。
それを見て不破もナイジの元へ行こうとピットを離れようとするのを目にして、ナイジは舌打ちをする。安藤を懐柔して一安心というところに、不破の目に留まれば話が更に進まなくなるのは目に見えている。
ナイジの元へ駆けつけようと動き出す、そんな不破に声をかける者がいた。
「不破さん、ちょっと」「オマエ!?」そこに立ちはだかるのは八起だった。
グリッドに着いたクルマからロータスのドライバーが降りてきて、何やらオースチンのドライバーと話しをしたと思えば、ピットから誰かが呼び出された。レース前になにが取り行われているかわからないスタンドがザワつきはじめる。
呼び出された西田も思いがけず注目を浴びてしまって居心地が悪い。「どうしたんだ?」
「オマエも乗れ。ナビゲーター付きのレースだって別に珍しいことじゃない。仕切り直しさせてもらえて光栄だよ。それに、これで最初と同じ状況だ。こいつが俺らの闘いのルールと思えばな」
いったい最初と同じになると、どう光栄なのか、ナイジには理解できなくとも、妙なこだわりに執着する安藤がその気になって乗ってきたいま、気が変わらないうちに後戻りできない状況を作り出すためにさらに挑発を続ける。
「野郎を乗っけて走るのはソッチの勝手だけど、コッチより重くなったことを負けた言い訳にするんじゃねえぞ」
「へっ、言うじゃねえか。だがな、コイツが重いのはこの頭でっかちなデコだけだ、身体は針みてえにガリガリなんだぜ。そっちのおネエちゃんの方が重いんじゃないのか。ハッハッハッ!」
西田は安藤がこうして自分を追い込み、気持ちを高めていき、闘いの中へ入り込んでいくスタイルを好んでいると知っているだけに、へたに意見でもすれば逆効果となり、レースへの流れを堰どめしてしまうので口出しができない。
それにしてもそんなことを勝手に決めてしまっていいのか判断しかねていた。出臼が西田が呼ばれたのを止めずに一任したのも、そういったところを含めて責任を持ってもらうという意図なのだろう。
――勝てばいいんだ。その確率が上がるならば、やるべきことはすべてやるだけだ――
ようやく到着した不破が両手で窓を叩きながらなにやら喋っている。ここまできたら、もうジタバタしても仕方ない。
マリが言うように車窓から眺める光景は、音の壊れたテレビでも見ているようで、自分たちとはまったく関係のない世界に映っている。
それが実際には自分達についてウダウダとなにやらやり合っているのだから、よけいに滑稽に見えてくる。放っておいたら不破が窓を叩き出したので、しかたなくサイドウインドウのノブを回す。
「ナイジ、オマエってやつは。まったくどれだけ手間かけさせりゃ気が済むんだ」
「不破さん、ゴメンよ。いろいろあってさ、こうするしかないんだ。理由は、言えないけど、オレを信じて好きにやらせてよ。今回はさ」
「今回もだろ、今回も。いつも好き勝手やってるじゃねえか。どうせなに言ったって聞かねえくせに」
思いがけない柔和な言葉にナイジは拍子抜けした。どやされると思い下手に出たにもかかわらず、なにやら穏便に済ませられそうな気配さえある。
「なんだか知らんがこの件は馬庭社長も承知しているようだ。さっき八起が… 知らんか、その社長の伝達者がオレんとこにきて、このまま進ませろと言ってきた。オレにはなにがなんだかサッパリだが、これだけ人を呼んでおいて止めるわけにもいかねえ。ホントに信じていいんだな?」
ナイジはごちゃごちゃと説明するつもりは甚だない。自信ありげにうなずくだけだ。馬庭が承諾しているという件は気にかかったがいまは幸運だと思うしかない。
「そんなことより、アチラさん、かなり気分良くしてるぞ。お前の無理を聞き入れて、なお自分の方が不利な状況を作り出し、レースへの気持ちを高めていく。どうやらそれがアイツのやり方だみたいだ」
自らの経験から相手の心理を読み取った不破が、安藤のレース前の気持ちの入れ方をナイジに諭す。
「それを自分の力に変えていくと考えてるなら、それもイイさ。それで墓穴を掘ることだってある。もう少し気分よくさせて、コッチの戦略に協力してもらうつもりだし」
なにやら自分の術中に手繰り寄せる計画を持つナイジの、その深みを持った瞳の奥に、不破は飲み込まれそうになる。
「なにするつもりだ?」
「オレ、必ず1コーナーでアタマ取るから、絶対に1コーナーで引かない。でないと、その先勝負にならないから。そうヤツに伝えて欲しいんだけど」
「誰が?」ナイジはこともなげに不破の顔を指差す。
「不破さん、たのむよ。これは不破さんに言ってもらったほうが効果があるんだ。オレの最後のわがままだと思ってさ」
それだけ言うとウインドウを閉じてしまった。不破はしばらく顔を歪ましたまま、何やら考えたあとロータスの方へ歩いていった。あたまを掻きながらロータスへ向かうその姿は、まさにイヤイヤという風体があふれ出している。
――頼むぜ不破さん。うまいこと伝えてくれよ。そう言っておけばアイツの性格だ、必ずオレに1コーナーへのスペースを用意する。勝負にならないと言われた勝ち方で勝つようなヤツじゃない――
ゼロスタートからの加速と伸びを重視して、安ジイに頼み込んで権田に調整してもらってはある。そうであっても結果をより確実なモノにするためには、ひとつも残さずやるべきことは抜かりなく押さえて、後でやらなかったことを後悔するのは避けなければならない。
レースに勝つために、スタート前からの事前の段取りを抜かりなくおこない、綿密にすべてのやるべきことを潰し込む必要性を感覚的に察知していた。
最後の一手となる陽動作戦は自分の口から言うより、不破を介したほうが効果的だ。はたして不破が自分の意図を汲み取ってくれたか気にはなるが、弓を放った以上、自分ではもはやどうすることもできない。うまく安藤がノってくることを祈るしかなかった。
――何が、最後のお願いだ。まったく、どんな神経してんだ、ここまで迷惑かけといて、オレをパシリに遣うとはよ。それで相手を揺さぶろうとは。へっ、たいしたヤロウだぜ。 …最後って、どういう意味だ?――
愚痴りながらも不破は、自分の言動が安藤にどう影響を及ぼすのかが気になりはじめた。安藤をその気にさせるような立ち回りが必要であっても、それほどの腹芸ができるタイプでもない。なんとかナイジが望むような結果を引き出したいが、もはや出たとこ勝負で開き直るしかない。
「おい、なんか来るぜ、あのオッサン。何か言い足りないことでもあるのか?」
西野が横目で確認し、あごを突き上げる。不破はロータスの前を横切り安藤の側まで回り込む。顔をこちらに向けないところを見ると、何か含んでいるのはあきらかだ。安藤がサイドウインドウを下げて不破を邪険に扱う。
「なんだ、もう話しはついたろ。そろそろ、おっぱじめねーとお客が騒ぎ出すぜ」
そう言われても不破は極力、無表情をよそおうよう努めた。変に感情を作って喋っても自然でないし、逆に深読みされるだけだ。
「そのことじゃねえ。あのな、ウチの若いヤツがよ、1コーナー譲らねえってよ。山間部に入る前にオマエさんを前に出したら、追いついても追い越せねとさ。だから、絶対に1コーナーで引かねえとよ。オマエさんもそのつもりで走るんだな。オレはその方が恥じかかなくて良いんじゃねえかって言ったんだけどな。そうだろ、1コーナー取っときながら、山間部でかわされりゃみっともないことになる。まあ、そういうことだ。せっかくの対面対決だ、1コーナーで終わっちまっちゃあもったいねえしな」
それだけ言うと、サッサとロータスの前を横切って、来た道を折り返していった。
「なんだ、ありゃ?」安藤は唖然と見送っていった。
「あれで、エサでも蒔いたつもりか? 1コーナーを譲れってことだろ。安藤、オマエ、あんな言葉に乗るんじゃないぞ」
「さあな、それは、そん時の状況だ。それより、山間部で抑えられる自信があるほうが気に入らないぜ。こないだと同じだと思うなよ」
安藤は自分で言っておいて、その意味がわかってきたようで、顔が見る見るこわばってくる。西野は半ば諦めかけていた。
――だから、それが、オマエにそう思わせる陽動作戦だって… ――