private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

Starting over21.31

2020-01-11 15:24:51 | 連続小説

 周回コースを5回まわったところで朝比奈はスピードをゆるめて歩きはじめた。1週2㎞で10㎞。はじめからそうしようと考えていたぐらい規則的な行動だ。
「ちょっと待ってて」
 そう言って、そのまま図書館に戻っていった。朝比奈は満足したかもしれないけれど、おれはなんだかまだ走り足りないぐらいで、走れないはずだったのに、いざ走れると知ればこんなもんだから自己チューすぎる。
 おれが無意味に足をバタつかせていると、朝比奈がバックをかかげてタオルで汗を拭きとりながら戻ってきた。図書館のロッカーに入れておいたんだ。さすがいろいろと用意周到。
「何? もの足りなかった?」
 若気のいたりでいろいろとモノ足りないことが多くて。朝比奈はタオルをもう一枚バッグから出しておれに渡した。すいません、おれなんかの毒にまみれた汗をふかしていただいて。そしておれたちは木陰のベンチに腰をおろした。
 木々のあいまからこぼれおちる陽光が、路面のあちらこちらをキラキラと輝かせている。夏の風物詩って感じに、芝生のうえでシートをひいた家族連れ。愛犬の散歩にいそしむ人。虫取りアミとカゴを持って走る子供たち。おれたちみたいにジョギングをする数人の男女。
 まわりが明るく浮かび上がって、別世界として目に入ってくるのは、おれが望んでいる世の中を植え付けるための夢想なのか、、、 同じ場所に居るはずなのに、、、、 そうして青空がますます突き抜けていく、、、 暗くなれば星が煌めいているってえのに、いまじゃ太陽のせいでなにも見えやしない。
 朝比奈はクールダウンの余韻を楽しんでいるのか、両ひざに肘をつけてその様子をながめている。間断なく草木にふれて冷やされた空気がおれたちのからだを通り抜ける。だから火照ったあたまが冷やされてすっきりとしてくる。
 少しはあたまを冷やせということなんだろうか。結論を急ぎ過ぎるのはよくないのは、これまでの経験でもわかっていた。それなのに毎回、すぐに判断したり、選択を強いられたり、その能力ができるオトコの基準とされて、もたもたと先延ばしにしているようなヤツは、煮え切らないオトコとしてダメな烙印を押されてしまう。
 そんなオトコの無意味な価値判断でこれまでの世の中が回っていたんだから、これは大いにあたまを冷やすべきだ。
「だいじょうぶよ。そんなに都合よく問題を解決できるわけないし、その結果が自分たちの意にかなったものになるのも稀なのに、そんな映画やドラマはもとより、物語や創られた歴史書ばかり見たあげく、最低ラインがそこに設定されてしまっても現実化しないでしょ」
 そうまでわかっているなら、今日のところは考えをまとめさせる時間をくれないかな、、、 おれの場合、熟考するというより、なんとか時間をかせいで、そのあいだに誰かがなんとかしてくれないかと切に願うばかりだ、、、 ケイさんとか。
「わたしは、それでもかまわないわよ。別にね、ホシノは、どうしたいの?」
 いやどうしたいって言われても、そりゃ朝比奈にそう言われれば、おれはなんだってやるつもりはある。ただし、それにはいろいろと越さなきゃならないハードルがあるわけで。
「まだ大丈夫だよ。夏休みはまだ続いてるんだから。わたしね、なんだかこう思えるの。夏休みって魔法がかかってる時間なんだって。だからそのあいだは、いろんなことが起きる。不思議なこと、普通じゃ考えられないことが。夏休みってさ特別なんだよ。春休みとか、冬休みでは感じることができない。だからみんな夏休みになにかしたくなり、なにか別のモノになりたくなる。もうそんな時間もなくなるんだよね。それが大人に守ってもらう立場からの脱却になる意味なんじゃないかな」
 夏休みの記憶っていつだっていいものだった。これからなにか無限の楽しみがはじまる。そんなワクワク感がいまだってよみがえってくる。それこそが不安定な記憶。それだけが自分の拠り所になっている。そんな不確実でおぼろげなものにしか頼ることができないんだからおれたちは儚い生き物なんだ。
 答えのある問題には取り掛かることができるし、正解を出すこともできる。解くことができなくても、必ず正解はあるし、教えて貰うことだってできる。あたりまえだけど人生は必ずしもそうではなく、答えはないし、正解があっても正しいとは限らない、、、
「少年よ。過去にとらわれるな。前にも言ったでしょ。正しいことなんてこの世にはないって。どうやらあるのは正しいことをしなきゃならないって観念だけ」
 クルマの運転を教えてもらったときもこうしてベンチに座って話してた。昨日のことなのにもういつのことなのかと記憶をたどっている。あのとき朝比奈はアイスを食べたいと言った。今日だってこれだけ走ったんだ。きっと冷たい飲み物をご所望のはずだ。
「じぶんひとりで生きていくにはそんなものは必要ないんだけど、どうしたって大勢の中に組み込まれて流されていくのなら、わたしたちは正しいといわれるルールに従うほかはない。いきましょうか」
 察した朝比奈はそう言って席を立った。まっすぐ進むその先には自販機がある。ここはおれがとポケットから小銭を取り出して何を飲むか意向をうかがう。朝比奈の細くてきれいな指が湾曲を描いて示したそのさき、、、 やっぱりコレか、、、
「組織で生きるにはある意味、自分の身柄と大切なものを人質に取られているようなもの。自分の勝手な行動が組織に迷惑をかければ自分が糾弾されるだけではなく、まわりにいる大切なものに被害が及ぶように組み込まれてたりするんだから」
 おれは大好きなコーラのボタンを押した。激しい音を立てて落下してくるんだから、栓を開ければ吹き出すんだな。ひととの関わり合いが増えれば喜びと悲しみが増えていく。それを朝比奈は受け止めてくれるんだろうか。
「集団生活をするうえでの担保が、人の生き方を決め、可能性を停滞させている。これからのひとたちが自由である生活を手にしたときに、その使いみちを誤ってしまったら、それはかなり悲しい未来になりそうで。だけど、しかたない。本当に手に入れたいモノが、かならずしも望んだ人の手におちるわけじゃないから。そう思うと、わたしたちは不完全な自己完結の中でしか生きていけない」
 世間という枠から外にでるということは、つまりそういう世界に足を踏み入れ、自分で納得できるかどうかの判断を繰り返している。自ら関わっていく時も、まわりから関わりを持たれる時も、その都度に、先走った行動か、熟考のうえでの行き当たりばったりの言葉の上で成り立っていった結果がその後を形成していくだけで、どこに作為があったかなんてなんの検証をされるわけでもない。
 それなのに、いつだって朝比奈は手際よく、おれの中心までなんなく手を伸ばし、スルッと大事な部分を取り出してくれたんだ。おれのほうから手慣れてるとはいいづらく、そう断定するのはあまりにも失礼であるし、もちろんそうでないほうがおれの気も休まる。
 おれの迷いもよそに、朝比奈は外界に解放されたおれの芯部を優しくほぐしてくれていた。自分では味わえない感覚を他人に委ねるのは自分を否定してしまうことになるのか。だったら自分が何者かなんて永遠にわからないままなんじゃないだろうか。
「『自分が何者か』、なんてのは、自分自身で決められるものじゃない。大勢がアイツはいい人だという。そうだから自分はいい人であり続けられ、大勢があいつは悪いヤツだといえば、自分は悪い人間になる権利をえられる」
 朝比奈はそれを開けて、唇を小さく動かして吸い取っていった。細く長い首がコクコクと動き、のどを通って流し込まれていく。
「だからね、ホシノがわたしを嫌がってなければ、わたしもホシノを嫌がることはない。まわりがわたしを嫌っているから、わたしは大勢に嫌われてもかまわない行動をとる。周りとの関係があってはじめて自分が何者かを決めることができる。歪んだ考えだけど、それもまた真実」
 おれはつい、皮肉めいた言葉を思い浮かべる。じゃあ朝比奈は人間じゃないのかもしれなと。そして同時におれにとっては天使なのかもしれない。おれは汗をふいたタオルを使ってきれいにした。申し訳ないので洗濯して返すってことわった。
「オトコができることも、オンナができることも限られたことがある。どちらかの領分を羨ましがったうえで侵犯したり、奪ったりしても、一瞬の心地よさを得られるだけじゃないのかな」

 そうだよなあ。一瞬の心地よさを感じてしまったおれは、朝比奈からいわれるがまま次の行動を起こすのは簡単じゃない。ここまでおれの気持ちを読まれ、そのうえ、おれが動きやすいように心理や、身体の動きまでに言及してまで求められるなら、それにノコノコと乗っていけば、主導権はつねに朝比奈の手の中だ、、、 いまでもいろんなモノが手の中だけど、、、
 ゆっくりと呼吸をあわせて、うえへ、したへと揺り動かされていくから、おれはもうすぐに限界までいきついてしまい、この世に放出するしかない。おれがどこで行こうが行こまいがそんなことはおかまいなしだ。
 朝比奈は不機嫌になるわけでも、冗談として受け止めてくれるわけでもなく、柔らかく目を閉じたその表情はまったくの自然体であり、次への行動がなにも読めない。つまりこれはおれの言葉を肯定しているという態度なのであろうか。
「ホシノが私を人間ではないと言えば… 」
 ああそういうこと、悪かった、悪かったよ。いま人間でない自分を演じてたんだね、、、難しいって、、、
「 …人間ではないし、天使だと思えば、ホシノにとっての天使になれるのかもしれない」
 芝生の家族づれはボール遊びに興じている。おれはまわりの視線を気にして、目が泳いでしまい、その度に不自然に目線をそちらの方向に向けていた。その場に収まっていない状況にあきらかに戸惑っている。柔肌の感触と香り、温かな熱量と心音が押しつけられてきて、、、 もう身動きがとれない、、、