「気ぃつかわせて、悪かった」マリイは、沈黙のことを、涙のことを詫びているのだろう。
「いや、オレに配慮がなかったから、、」その原因を作ったのは自分であるというのがエイキチなりの言い分だ。
今度はチェアを倒さずに、エイキチの後頭部にハサミを入れはじめた。やはりカラダを休めるつもりはないようだ。エイキチは訊いてみた「いいのか?」。
「そういうのはキライだ」マリイはエイキチに、服を引っ張られたような錯覚を覚えた。
エイキチは頷いた。シャキ、シャキと、ハサミの刃が重なる小気味いい連続音が鳴っていく。自分の仕事を続けろという意思表示に聞こえる。
代理人の指示の意図は何なのか、傍受していたやり取りと、どうつながるのか、またはつながらないのか。
まずはウラで動かしている、データ処理を画面に戻した。あれからも例の件についてのやりとりは続いており、その内容が画面に表示されていく。これまでになく混乱して慌てた様子が見て取れた。
いったい何が正しいのか、エイキチはそれを知りたい欲望に駆られていた。飛び交う情報を目で追っていく。そこには多くの意味合いが含まれているようで、捉え方は様々にありそうだった。
「マリイ、いいんだ。オレには体裁を整える必要はない、、」エイキチはそう吐き出した。
キーボードをたたく手が、いつしか止まっていた。いつもなら一心不乱に解析にのめり込んでいくはずだった。耳元で鳴り続ける断続的なハサミの音がそれを妨げている。
誰とも会わずに、ここにひとりで生きていても、多くの情報が溢れて処理しきれないでいる。故意であるのか、偶発的なのか、わかるはずもなく、それが惑わすためなのか、正当性があるのかとまで疑ってしまう。
いつの間にか思考はマリイのことに行き着いていく。結局自分もマリイと同じだった。ふたりで協働して、制約だらけの街なかを、1秒でも削って駆け巡っている時だけが生を感じることができた。
「何を賭けるつもりかしらないけど、言葉の意味はひとつじゃない。そしてどちらが嘘かなんてわからないんだから」マリイは言った。
エイキチたちの残りの時間は、その走りをするための下準備でしかない。難攻不落のゲームをしているような感覚。必死にそれと向き合っている時は、何か充実しているような錯覚に陥っているだけで、終わってしまえば何も残らない。
それなのに、そこにかけた時間を否定することが怖くて、次の獲物を探し、攻略を続けてしまう。いつしかやりたいことが、やらなければならないことに変わってしまっていた。
だからなのか、難しいミッションをこなしたあとにくる、高揚感を上回る寂廖感が日々重たくなっていた。いつまでも同じことを繰り返してはいられない。
「そうだな、誰だって欲望を隠したがるものだから、、」エイキチが返した。
物事には必ず終わりがあるのだ。成功の体験が大きいほど、そこから逃れられなくなっていく。引き際や潮時を見誤れば人生を間違えるだけだ。出来ることをやり尽くしたならば、卒業しなければならない。
マリイとエイキチは囚人のジレンマに近い状況にあった。どちらかが下りれば、もう一方も巻き込まれる。それは、どうしたって言い出した方に過重がかかる。
そして何より最大の問題は、今の関係が維持できなくなることだった。仕事は辞めたい、でもここで一緒に暮らしたいは通らない話しだ。
今のような収入を得るのは、自分達の置かれた状況で、特にエイキチに取っては困難だ。その環境を準備してオーナーは彼らにこの仕事を担わせいる。
絶対に代替の利かないのは、仕事もこの環境も一緒だった。オーナーはそれをわかったうえで、うまく自分達を利用しているようにもみえる。そして自分達もそこに依存している。それがこの世のすべての仕組みであるように。
マリイの手がエイキチの耳を覆い、そこにハサミを入れていく。自らの悪しき考えから、耳を閉ざせと言う示唆であるかのように。
悪く考えれば確かにそうなってしまう。そうでないことの方が多いのに。いまはネガティブな方が先に立ってしまう。偏った方向性に流されているのは危険な状態とわかっているのに。
オーナーは自分のような人間の、得手の部分を活かしてくれている。マリイも街なかで、意味もなくスピードを追い求めているだけの暴走車だった。他のクルマや、ひとに迷惑をかけるだけの存在だ。
それを必要をする人やモノを結びつけ、ビジネスにつなげたのもオーナーだった。マリイが苦手とする代理人も、耳に痛い言葉がなければ、取り返しのつかない大きな事故を起こしていたかもしれない。
それが同時にマリイが束縛を感じている要因にもなっている。物事には必ず表と裏が一体化している。どちらに傾くかはその時の自分の状況に左右されてしまうものだ。
前髪を摘ままれて、そこにハサミが入っていく。前髪を作られるのはエイキチは苦手だった。髪を結んでいたときは、オールバックにしていた。
これまでもマリイは、流したり、真ん中で分けたり、細かく交差させたりと、色々なアレンジを試してきた。形が決まらないのは最終形を模索しているためか、どれも似合わなく迷走しているのか。
エイキチは、どれもそこそこ様になっていると満足していた。それなのにその評価を下されないことに気をもんでいた。マリイはただ単に、楽しんでいるだけなのかもしれない。
エイキチはマリイが楽しめないのならば、この仕事を続ける意味がないと考えていた。
そして、やはりマリイも同じことを考えている「それが自分たちの、ある意味運命だってわかってるだろ。それでいいと思ってるんだ」。
ここはどうしたって自分が負荷を抱えることになったとしても、マリイの気持ちを優先させたい。そうしなければ自分の存在価値がないだろう。そうやって自分のやるべきことを無理やり実行しようとしている。
モニターに気になる言葉が並んだ。”ホントに、殺るのか?”。よくある誤変換だ。”陸ではオボ練だろ”話し言葉であれば、その傾向は一層強まることもある。
マリイは再びチェアを倒した。エイキチは完全にモニターから隔離されてしまった。強制的にすべての情報からシャットダウンされた。マリイが意図してしたことではなく、それに意味があると思えた。
もはやアタマの中で考えをまとめるしかない状態になり、それもまた硬直した思考には有効に働くこともある。
電子レンジで温めたタオルをエイキチの口まわりにあてる。じんわりとした温かみが気持ちいい。スプレー缶のシェイビングクリームを手にとって、額や瞼のあたりに馴染ませる。
剃刀を滑らせてクリームを削いでいく。眉の周辺はゾリッ、ゾリッと抵抗感のある音を立てる。自分の顔が無防備に侵略されていくのはいつだって不思議な感覚だ。
無抵抗な状態が継続していくと、それが却ってなにか包容感に覆われていくようであった。本当はそうでなくとも、それが本当であると信じてしまう。
知られたくない情報を隠すには、それより大きな嘘をつくしかない。代理人に言われたことを自然と思い起していた。
外交と軍基地がどう結びつくのか、そこが鍵となるはずだ。必要以上のことを知らせない代理人は、そうやってエイキチがどこまで本質に近づけるか試してくる。
まんまとその仕掛けに乗ってしまうのも癪だが、エイキチにも好奇心と少しの意地もある。あってはならないことが起こりそうな気配がある。逃げる先があればゴリ押しも可能だ。
マリイも同様に代理人から色々な拘束を受けて、それを超える走りを生み出して来た。今日の走りなどその最たるものだった。
それが達成感や高揚感につながるかは別だ。何か自分達の能力が上手い具合に使われているだけで、ともに成長しているような共有感はなかった。これからも同じことが続いて行くのであれば、そこに何の希望も見えてこない。
データの検索に頼らずに、いくつかのキーワードを思い出して、過去に該当事例がないか思い起こす。嫌な予測しか出てこない。
偏ったバイアスに傾いている。サンプルケースがあると、それが正解という前提で、その後の解析を進めて行きがちになってしまう。
前例はあくまでも前例であって、判で捺したように継続していくわけではない。それこそ、以前にない方法、以前とは逆の方法を行使することで、過去にとらわれない新しい視点が目付けできる。
エイキチはそんなあたりまえの教訓を、無理やり自分に啓蒙していた。該当事例から推察される進化系や、相反する案件を含めて集約していき、在りえもしない状況を無理やり創ろうとしていた。
タオルを置いたところ以外の剃毛が済んだので、タオルを外し、柔らかくなったあごひげにクリームを塗っていく。物事には何にしろ準備が必要だ。そうすればすべてうまく行く。
毎朝、電気カミソリで剃っているものの、やはり剃り残しや、髪の生えぎわは疎かで、ひとの手を使って行うとでは仕上がりが違ってくる。
ひと通り終わると、クリームを剃りあとに塗布して、顔中をマッサージしながら伸ばしていく。そのあいだは顔が揉みくちゃにされて、なすがママになる分、そのあとの爽快さがいっそう際立ってくる。
もはや何も考える必要はない。答えを出したところで何かできるわけでもない。何かができるのはいつだって選ばれた人間だけだ。自分達はその一部を動かすために働いているだけだ。
チェアを起こすマリイの表情は満足げだった。鏡に写してエイキチに確認するでもなく、自分がこれで良いと思える形になればそれで良いようだ。
「オレは一緒に居たいんだ」ディスクまでチェアを寄せながらエイキチは言った。返事はなくとも顔を見ればわかっているのに聞いてしまう。
エイキチの後ろに回ってシーツを外すマリイ。シーツをはたいて床の髪の毛を片付けだす。やはり何も言うつもりはないようだ。
エイキチはキーボードをたたきだした。サンプルになるデータは膨大にあるので、その集計には時間がかかる。
自分で組み上げたPCでは演算速度が追いつかない。カットのあいだに走らせていた処理がまだ続いていた。そのあいだに現地の経路の見直しをする。
自分達がやることだけを考えればいい。それで何が起ころうと、単なるバタフライエフェクトでしかないのだから。
「ひとりで居たいんだ」そう言って道具を持って、マリイは自室に行ってしまった。
その時間差にエイキチも吹き出してしまう。マリイらしいと言えばその通りだ。
Pホテルと基地との最短ルート、迂回路、安全ルートなどをデータベース化していく。それが終わると過去5年間の交通状況を洗い出す。
特にこの日に起きた、特記するような出来事がなかったか検出する。ひとつ気になることが目についた。今日は、通り道となる神社で奇祭が執り行われる日だった。
神木が神社に奉納されるため、通行止めになる区間があり、その迂回のために近隣の道路も渋滞となるのは確かだ。
21時に解除される予定だが、最悪を考えれば、最短ルートは使えない。ルートを2−3考えておいたほうがよさそうだ。ホテルは裏口からの搬入になる。物流の搬入口に横付けすることを想定したルートを考える。
燃え上がるのはこれからだった。
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