private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

Starting over04.11

2018-12-09 06:42:56 | 連続小説

「今日さ、客少ないよな」
 などとマサトがのたまうが、客が多かろうが少なかろうが、新人バイトにはやることがイッパイあり、手を頭の後ろで組み、新人バイトの地位をオレに押し付けて、悠々としているマサトが癇にさわる。だいたいなんでこのごろマサトのひとことで始まるのか、それがついでに癪にさわる。
 おれは給油機を雑巾で清掃していた。油まみれになった手で雑巾を握りしめて、空に浮かぶでっかい夏雲を見上げた。
 なにか昨晩、重要なことがあったような気がして、朝のうちはなんだっけと気になっていたんだけど、バイトに入ってからはそんなことは忘却の彼方に消え失せていた。
 今日も暑くなりそうで、汗ばむカラダに風を送ろうと、作業着をバタつかせる。そういえば作業用のつなぎを洗濯機に突っ込んだままにしてあるのを思い出し、マサトに取り出して干しといてくれと頼んだ、、、 たまには仕事を頼んだってバチは当たらないだろう。
「あっ、ああ、そうだな。 …家じゃ自分の洗濯物も干したことないのにな。なにやってんだろうなおれたち」
 おれだって、雑巾がけさえしたことねえよ。こんなひとつひとつの作業が金になると思うと、母親の労働力ってヤツはいったいいくらになるのだろうかと、殊勝な気持ちになってしまった、、、 少しは感謝するか。
 マサトが事務所の裏にある洗濯機に向かっていくのを見届けて、ちゃんとやるんだぞと念を送っておく。
 道路に目をやるとスクーターが直進してくるのが目に入った。たぶん給油に入ってくるって、そういうのが感覚的にわかるようになってくるのは一種の職業病か。ひざ下までのデニムのショートパンツに、ゆったりした白い綿シャツを着た若い女性だ。
 ウィンカーを当てて、手慣れた感じでスタンドに入ってきた。肩から斜に掛けたバックを背負っている。ベルトの部分が豊かな胸をより明確に左右に分けて、段差のはずみで大きく揺れるのを遠い目をしながら実はロックオンしている。
 マサトは洗濯物を干しに行ってしまったし、空調の効いた事務所の中で机上業務をしている先輩たちが、わざわざ給油に出てくるはずがない。ここぞとばかりにいらっしゃいませーっと景気よく声をかけスクーターに近づく。少しはおれもいい目をみたっていいじゃないかと、がぜんやる気を出していると、どうにも懐かしい声が耳に届いた。
「レギュラー満タン」
 まさかとは思ったけれど、ヘルメットとサングラスをはずすと見慣れたセミロングが現れ、彼女より先にピンときたおれは何て声を掛けるべきなのか、まとまらないうちに向こうも気付いたようで、拍子抜けするほど平然と声を掛けてきた。
「ああ、ホシノ。ホントにバイト始めたんだ」
 あの日以来のナマ声は、やっぱり艶っぽくて耳触りがいい。てっきり嫌われたか、そうでないとしても無関心の部類に入ったんだと思っていたおれは、たとえ客と店員としての関係を前提として話しかけられたとしても、それだけで嬉しくて、、、 それじゃ、あまりに安いのだろうか、、、 だから精一杯きどった態度で、ああ、まあ、となんとか絞り出してみた。
 これはもしかして千載一遇のチャンスなのかと思いながらも、彼女の問いにまともに応えられておらず、いやあ、朝比奈との距離が一気に縮まったかと思ったら、あっけないほど冷たくされたもんだから、バイトでもして別の出遭いでもみつけようかと、、、 なんて本音を言えるわけがない。
 おれは目に見えてぎこちない動作で、、、 目は胸元のベルトあたりを回遊して、、、 彼女からカギを受け取り、その時に指先が少し触れただけで、電気ショックが走るような感覚を受け、これは先ほどの映像とともに、夜のオカズにしようかと妄想だけは瞬時に浮かぶもんだから、さらに不自然な動きでシートを上げて、給油口のキャップを不器用にはずす。初めての給油作業がまさか朝比奈になるなんて、、、 どうせなら、初めての共同作業のほうがよかった、、、 いつのはなしだ。
「ホシノーっ、ヘタだな。まだ慣れないの?」
 これはイイ格好をしようとして、失敗する典型的なパターンだ。ああ、どうせ出遭うなら、こんな場所じゃなく、もう少し気の利いたところで、例えは、勉強中の図書館であるとか、、、 本当はそうでなくちゃいけないのに、、、 親を騙くらかしてバイトしてるくせに、、、  そんな都合のいいシチュエーションになるはずもなく、だいたい朝比奈がわざわざ図書館に来て勉強する理由がない。
 おれがバイトを決断し、、、 さまざまな下心を持ちながら、、、 今日たまたま、この暑い中で給油機の掃除をしていたから出遭えたわけで、折り重なる偶然の一致が二人を結び付けたかと思えば運命を感じ得ない、、、 懲りないな、、、 掃除を言いつけたオチアイさんに陰で舌打ちしたけど、いまは不本意にも感謝しているおれがいる。
 ノズルを突っ込んでトリガーを引いてから、おれはまだ下っ端だから雑用ばかりで、あんまり給油することなくってさと、取り繕ってみた、、、 することなくってもなにも初めてで、しかもマサトの見よう見まねだ、、、 だいじょうぶか?
 おれは満タンになるまでの間が持たず、勢いにまかせて朝比奈に問いかけてみた。おれの現状は見ての通りだけど、朝比奈は夏休みに何してるのかって、、、 うーん。これって、結構立ち入った質問だな、、、 そんなことホシノに関係ないでしょ、なんて言われたらへ込むな。だけど、ここでバイトしているのかの問いに対してなら、不自然でもないはずだ、、、 その言葉を言われてからずいぶん間が空いたけど、、、
「まあ、いろいろとね。それなりに高校最後の夏を楽しんでいる… つもりだけど」
 おれは、給油口までガソリンが一杯になってきたのを確認し、トリガーをゆるめて少しだけ朝比奈の方を見た。
 真っ白なシャツから良い匂いがしてくる。ポケットに手を突っ込んで、顔だけを通りの方に向けて、そんなセリフを言うもんだから、おれは映画を上等な席で見ている気になり、それだけで満足してあらためて見惚れながらも、朝比奈のその表情はあまり楽しんでいるようには見えず、最後の『つもりだけど』という言葉がなんとなく自信なさげに伝わって、おれの胸に刺さってくる、、、 なんだよ、このシチュエーションは。
 それはおれになんとかして欲しいとかってことなのか、たぶんおれは楽しんでいない朝比奈をどこかで期待している。それをおれが満たせられるんじゃないかと誇大評価している、、、 できるわけがない、、、
 そうだよな、最後の夏休みなんだよなって、いまさらながらに身に染みてきた。どうもおれは他人に言われてようやく自分の状況を実感できる性質で、、、 だから母親にも呆れられる、、、 
 主体性のなさは誰にも負けない、、、 だからマサトに嵌められる、、、
 ガソリンは誇大評価せずともタンクを満たしていき、あとは微調整しながら少しづつ給油して、めいっぱい満タンにする。左手に持った雑巾でノズルの先端を拭きホルダーに戻し、引っかけてあるボロ布で給油口の周りをきれいにしてからキャップを締める。
 シートを下ろすと、スクーターを挟んで、朝比奈と対面する構図になっていた。無表情でこちらを見ている。おれはやっぱり、プライベートに関わるような込み入った質問をしてしまったのだろうかと身が引けて、あの時を再現するように、メビウスに睨まれた哀れなオトコって状況になっている。硬直したままの身体に相反し、その分余計に泳ぎ回る目が焦点も定まらない。
「いくらだった?」
 あっ、それを待ってたのね、、、 なにを待ってるんだかおれは、、、 その言葉で、おれの中でいろんなものが崩れ去り、停止していた身体を必要以上に動かして会計の準備を始めた。まさか新人バイトの分際でサービスしときますとも言えず、わるいなあと断わりながらリッター105円の計算をして電卓を彼女に向けた。
「そんなこと期待してないから。それより、なんか悪かったね… 休み前。 …迷惑かけちゃったみたいで。あの状況を考えると、教室で親しくしない方がいいと思ったから」
 小ぶりのレザーでできた財布は質感があり、端数まできっちり取り出しておれの手にガソリン代を置いた。ここでキャラクター付きの財布が出てきても絵にならない、、、 それもまたいいか、、、
「じゃあ。またガソリン入れに来る」
 ヘルメットをかぶり直し、スターターを親指で押してエンジンをかけ、チコチコと、スクーターらしい音のたてるウィンカーを出して左足でバランスを取りながら本線に合流していった。
 朝比奈がそこにいるだけで、そして動くだけで、いつもの風景が映画のスクリーンになって映画館特別指定席にトリップしていく、、、 こりゃ観賞代払ってもいいな、、、 なんてことまで思ってしまう。
 おれはあらたまて、もっと早くそれを言ってくれれば、こんなバイトしなくてもよくて、本当に図書館で勉強でも教えてもらいながら有意義な夏休みを過ごし、朝比奈の『楽しんでいるつもり』を、『楽しいに』に変えてやれるのに、、、 などと、妄想が分不相応なまでに肥大化していた、、、
 おれのことを気にかけてくれた朝比奈。彼女らしいのかと言えばそうではないはずだ。それがなぜこのタイミングでのカミングアウトになったのか。そこには彼女なりの理由があり、いま明かされたおれにもそうなる理由があるはずだ。
 なんにしろ、悪い印象は持たれてないようで、それだけは安心していいみたいだ。それにまた来るっていうから少なからずも脈があるはずで、そいつを理由にこれからのバイトを乗り切ろうだなんて、朝比奈のスクーターのガソリンがどれほどの頻度で空になるかなんて、おれの小さなあたまには計算できないところが残念すぎる。