原子力発電所建設に向けた水理実験室建設を担当した時、入社5年目の新人だったが「安全最優先」を宣言した。今から思うと、上司に「安全最優先で行きたいのですが」と相談すればよかったんだね。
建築課長が建築費を安くするため実験室の天井高さを1m下げることに決定し、変更には副社長の承認を要求され上司も諦めた。結果、建屋回廊から実験撮影用天井クレーンへの乗り移りがしわ寄せを受けた。上司2人は4m高さを腹這いになって移る案を示した。私は安全性が保てないと譲らなかった。
建築費節約で安全性が脅かされた話は、福島原発で津波高さを低すぎる6m程度に設定したのと似たパターンだ。福島原発は14mを超える津波でメルトダウンし、東京が放射能汚染で壊滅状態になるところだった。
故吉田所長は、2007年から原子力設備管理部の部長を務め、社内検討で最大で水位10・2メートル、浸水高15・7メートルの津波が想定されたのに対して、有り得ないと一蹴していた。電力会社の技術屋が出世するにはイエスマンが条件で決定を覆してはいけない。
私は半導体やソフトしか知らない素人だったが天井クレーン作業の安全性確保に専念した。毎日のようにクレーン業者と連絡を取り、図面を何度も変更させ、2か月かけて普通に乗り移れる構造とした。幸い水理実験室は無事故、その後原発は建設された。
遡り、新入社員2年目は私の意に反して火力発電所の当直に配属となり、深夜勤務で体調を崩した。深夜勤務が3回連続となることが原因だった。アンケート調査し、AからDまでの4当直で、それぞれ90~100%の回答が深夜連続を3から2にして欲しいとの結果となった。
私は自費で他の電力会社にも出張し、勤務体制を研究し、運転課長に提案する事にした。ところが私が行く事は情報が届いていた。課長に提案を聞いて下さいと伝えると「忙しい」と言われた。暇そうだったので「時間は有るんじゃないですか」と言うと「何でお前にそんなことが分かるのか」とフロア中に聞こえるような大声で怒鳴られた。
提案は聞いて貰えず、3連続から2連続になったのは私が研究所に転勤した後の事だった。その後、若い二人の当直員が亡くなったのが原因だった。一人は私が指導した事のあるH君だった。はきはきと明るく、素直な青年だった。今でも彼の笑顔を想い出す。
90%以上の当直員が希望していた変更(経済的には何の問題も無かった)を運転課長が個人的な思いで継続し、二人の尊い命が失われた。私は入社間もない新人だったが、解決のため、たった一人で立ち向かった。
その後も安全とか不合理に対しては妥協しなかった。一方で、バリバリ仕事し常識にとらわれず新しい道を開いた。山の様なジェラシーや悪情報にさらされ、行く道が閉ざされた。日本企業では正義は危険と言われるが、電力会社はその最も顕著な組織だろう。
自分自身が欠点だらけだったし、灰色を白と言うぐらいは出来た。枝葉はどうでも良い。しかし、電力会社の問題点は重要な所で何が事実か分からないし、明確にしない。事実が担保されない点はどうしようもなかった。
いかさまが大手を振って歩き、闇から闇。私は常に葬られる危険性が有った。早期優遇制度で辞めた時、私は自分の人生が救われた気がした。
建築課長が建築費を安くするため実験室の天井高さを1m下げることに決定し、変更には副社長の承認を要求され上司も諦めた。結果、建屋回廊から実験撮影用天井クレーンへの乗り移りがしわ寄せを受けた。上司2人は4m高さを腹這いになって移る案を示した。私は安全性が保てないと譲らなかった。
建築費節約で安全性が脅かされた話は、福島原発で津波高さを低すぎる6m程度に設定したのと似たパターンだ。福島原発は14mを超える津波でメルトダウンし、東京が放射能汚染で壊滅状態になるところだった。
故吉田所長は、2007年から原子力設備管理部の部長を務め、社内検討で最大で水位10・2メートル、浸水高15・7メートルの津波が想定されたのに対して、有り得ないと一蹴していた。電力会社の技術屋が出世するにはイエスマンが条件で決定を覆してはいけない。
私は半導体やソフトしか知らない素人だったが天井クレーン作業の安全性確保に専念した。毎日のようにクレーン業者と連絡を取り、図面を何度も変更させ、2か月かけて普通に乗り移れる構造とした。幸い水理実験室は無事故、その後原発は建設された。
遡り、新入社員2年目は私の意に反して火力発電所の当直に配属となり、深夜勤務で体調を崩した。深夜勤務が3回連続となることが原因だった。アンケート調査し、AからDまでの4当直で、それぞれ90~100%の回答が深夜連続を3から2にして欲しいとの結果となった。
私は自費で他の電力会社にも出張し、勤務体制を研究し、運転課長に提案する事にした。ところが私が行く事は情報が届いていた。課長に提案を聞いて下さいと伝えると「忙しい」と言われた。暇そうだったので「時間は有るんじゃないですか」と言うと「何でお前にそんなことが分かるのか」とフロア中に聞こえるような大声で怒鳴られた。
提案は聞いて貰えず、3連続から2連続になったのは私が研究所に転勤した後の事だった。その後、若い二人の当直員が亡くなったのが原因だった。一人は私が指導した事のあるH君だった。はきはきと明るく、素直な青年だった。今でも彼の笑顔を想い出す。
90%以上の当直員が希望していた変更(経済的には何の問題も無かった)を運転課長が個人的な思いで継続し、二人の尊い命が失われた。私は入社間もない新人だったが、解決のため、たった一人で立ち向かった。
その後も安全とか不合理に対しては妥協しなかった。一方で、バリバリ仕事し常識にとらわれず新しい道を開いた。山の様なジェラシーや悪情報にさらされ、行く道が閉ざされた。日本企業では正義は危険と言われるが、電力会社はその最も顕著な組織だろう。
自分自身が欠点だらけだったし、灰色を白と言うぐらいは出来た。枝葉はどうでも良い。しかし、電力会社の問題点は重要な所で何が事実か分からないし、明確にしない。事実が担保されない点はどうしようもなかった。
いかさまが大手を振って歩き、闇から闇。私は常に葬られる危険性が有った。早期優遇制度で辞めた時、私は自分の人生が救われた気がした。
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