先日 地図を見ていたら 河南町に西行法師の墓が載っていた、河南町の弘川寺境内に西行法師の墓があるのだ。
見に行こう、で、、、8時半頃からSuperCubで大阪府河南町へ
河南町役場のちょっと南・県道の白木南交差点から東へ入って約3Km、ワールド牧場の東側である
寺へ着いたら、山門の前に立派なだんじりが止まっていた、今日はかなん町の秋祭りのようだ、下河内の文字が入ったハッピを着た人たちが出発の用意をしていた。
なかなか大きな寺で歴史も古いらしい
天智天皇4年(665年)役行者の草創にかかるとのこと。 そして、戦国時代には堂塔ことごとく焼失したらしい。
本堂です
本堂横を通り西行の墓へ向かう、墓や西行堂や庵跡や似雲の墓は山の中腹にあるのです。
また、さくらを愛した西行を偲び 距離500mの 「桜山周遊路」 も造られている。
山一帯が境内なのか? かなり広い、道標に従い坂道を登って行くとちょっとした広場になっている、ここに西行の墓があった
写真中央奥が西行墳です
墓の横には次のように書かれている
「西行(円位)上人は晩年 空寂座主の法徳を慕って発臨され、文治6年(1190年)2月16日 73歳 当寺において入滅されました」
石碑には 「・・・・墓」と書かれている、はっきり読めません
また、広場の対面には似雲の墓がある
『 江戸中期 広島の歌僧似雲法師は西行を慕い、その終焉の地を求めて、この地に西行の古墳を発見しました。
その後、西行墳の周辺に千本桜を植え、その中に「花の庵」を建てて住み、西行堂を建立し、生涯を西行追慕に捧げました 』⇒ 現地説明文より
ダンジリを引くハヤシや掛け声♪♪を聞きながら山道を歩く
もう少し坂道を登ると 「似雲法師の住まれた草庵」 があり、法師の読んだ歌も書かれていた
「 須磨明石 窓より見えて 住む庵の
後ろに続く 葛城の峯 」
でも 今は木々が生い茂って須磨明石は見えません、木々の隙間から開発された住宅街が見えていました。
また、庵跡には阿波野青畝の歌碑も建っていた
『 いくたびの 春の思出 西行忌 』
さらに坂道を登る、かなりの距離である、やっと西行庵趾に着いた
狭い場所である、質素な庵に住んでいたのだろう?
これが無かったら とても庵趾とは気付きそうもない
まだまだ こんな道が続く
もう少し上まで行ってみたが、杉や桧の山の中から葛城山へ向かう登山道になってゆくようだ、、、、登って来た道を引き返す。
北面の武士だった佐藤義清が、白河上皇の寵愛する待賢門院璋子に・・・・ かなわぬ恋に世の無常を感じて出家し “西行法師” となり、そして この寺で73歳の生涯を閉じる。
何かウルウルしそうなショートショートツーリングのひと時でした。
見に行こう、で、、、8時半頃からSuperCubで大阪府河南町へ
河南町役場のちょっと南・県道の白木南交差点から東へ入って約3Km、ワールド牧場の東側である
寺へ着いたら、山門の前に立派なだんじりが止まっていた、今日はかなん町の秋祭りのようだ、下河内の文字が入ったハッピを着た人たちが出発の用意をしていた。
なかなか大きな寺で歴史も古いらしい
天智天皇4年(665年)役行者の草創にかかるとのこと。 そして、戦国時代には堂塔ことごとく焼失したらしい。
本堂です
本堂横を通り西行の墓へ向かう、墓や西行堂や庵跡や似雲の墓は山の中腹にあるのです。
また、さくらを愛した西行を偲び 距離500mの 「桜山周遊路」 も造られている。
山一帯が境内なのか? かなり広い、道標に従い坂道を登って行くとちょっとした広場になっている、ここに西行の墓があった
写真中央奥が西行墳です
墓の横には次のように書かれている
「西行(円位)上人は晩年 空寂座主の法徳を慕って発臨され、文治6年(1190年)2月16日 73歳 当寺において入滅されました」
石碑には 「・・・・墓」と書かれている、はっきり読めません
また、広場の対面には似雲の墓がある
『 江戸中期 広島の歌僧似雲法師は西行を慕い、その終焉の地を求めて、この地に西行の古墳を発見しました。
その後、西行墳の周辺に千本桜を植え、その中に「花の庵」を建てて住み、西行堂を建立し、生涯を西行追慕に捧げました 』⇒ 現地説明文より
ダンジリを引くハヤシや掛け声♪♪を聞きながら山道を歩く
もう少し坂道を登ると 「似雲法師の住まれた草庵」 があり、法師の読んだ歌も書かれていた
「 須磨明石 窓より見えて 住む庵の
後ろに続く 葛城の峯 」
でも 今は木々が生い茂って須磨明石は見えません、木々の隙間から開発された住宅街が見えていました。
また、庵跡には阿波野青畝の歌碑も建っていた
『 いくたびの 春の思出 西行忌 』
さらに坂道を登る、かなりの距離である、やっと西行庵趾に着いた
狭い場所である、質素な庵に住んでいたのだろう?
これが無かったら とても庵趾とは気付きそうもない
まだまだ こんな道が続く
もう少し上まで行ってみたが、杉や桧の山の中から葛城山へ向かう登山道になってゆくようだ、、、、登って来た道を引き返す。
北面の武士だった佐藤義清が、白河上皇の寵愛する待賢門院璋子に・・・・ かなわぬ恋に世の無常を感じて出家し “西行法師” となり、そして この寺で73歳の生涯を閉じる。
何かウルウルしそうなショートショートツーリングのひと時でした。