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金石範著「済州島四・三武装蜂起について」(「季刊三千里」1975年秋通巻3号より)その➁

2024-06-11 10:55:12 | 朝鮮問題

 1948年1月6日国連臨時朝鮮委がソウルにやってきて選挙の準備に取り掛かる。南北朝鮮人民の強い反対に出会った臨時朝鮮委は3月31日の予定を5月9日に延ばし、さらに1日延びて5月10日にいわゆる5・10単独選挙を強行する事に決定する。これより先、UN朝鮮委は北朝鮮に入ろうとしたのであるが、北朝鮮はUN朝鮮委の不法性を指摘してこれを拒否する。すると、事態を予測していた朝鮮委はそれを良い口実にして、南朝鮮だけの単独選挙を決定した。しかし、これは38度線を国境として固定化し、朝鮮民族の永久的な分断を意味するものであった。100万以上の農民、労働者、市民が参加した2・7ゼネストを含めて南北民衆の死に物狂いの闘いが起こったのも、この民族分裂を自らの手で防ごうとしたものに他ならない。

 済州島でもゼネストに参加するが、4月3日の武装蜂起、ゲリラ闘争は以上のような全国的な5・10単独選挙反対、反米闘争の一環として起った。済州島でのゲリラ闘争のさなかに、北の平壌では南北政党社会団体代表者会議が4月19日から開かれている。北が300、南から395名が一堂に集まって、祖国の分断を防ぎ、統一を達成するための討議をするが、その会議には、民族主義者で右翼の巨頭と目された金九らも米国政府に支えられた李承晩たちの単独選挙単独政府樹立に反対して、38度線を越えて参加した。北から帰った金九は翌年6月、李承晩の手先によって暗殺される。

 5月10日、南朝鮮だけの単独選挙が銃剣のもとで流血を伴ないながら強行されるが、済州島ではゲリラがほとんどの投票所を破壊、そして住民の不投票のために選挙は成功しなかった。こうして、1948年8月15日、筋書き通りに「大韓民国」がでっち上げられ、李承晩が米国政府の忠僕として大統領になる。その年の9月、第4回国連総会では、米国政府の采配のもとに、朝鮮における唯一の合法政府として「大韓民国」が承認されるが、これが第4回国連総会第195号決定で、のちに1965年の韓日条約日本側が韓国を朝鮮における唯一の合法政府だと主張する根拠となったもので、今日の対朝鮮政策の基本を規定しているものである。

 済州島は面積が1800平方キロ、大阪府とほぼ等しい火山島で、昔から今でいう政治犯たちの流刑地で、原住民もいますが、住民の多くは本土から流されたり逃れてきたりした政治犯たちの子孫にあたる。私もそうです。島だからという事もあるだろうが、済州島には昔から反権力的な気風の伝統があった。李朝時代、大日本帝国政府の植民地時代においてもそうであり、四・三事件が起こったのは、一つにはそのような歴史的に流れてきている島民の非妥協的な気質によるところもある。

 四・三武装蜂起はその以前から準備が行われていた。解放後、済州島においても人民委員会の組織を軸にして朝鮮統一の要求と反米闘争が強く行われてきた。蜂起の約1年前の3月1日には、城内(市内)での三・一独立運動記念集会に全島から3万人もの民衆が集まり、米軍の撤退民主的な改革などの要求をかかげて大会が開かれた。この時騎馬隊を繰り出して弾圧にかかった済州島米GHQ(軍政庁)は、14歳の少年を射殺する。激怒した群集は少年の死体を担いで抗議デモを続けるが、これが島民と米国政府との最初の正面衝突である。

(2024年6月11日投稿)

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