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中国ハルビンの東北烈士記念館:メディアは空襲被害とともに侵略加害の事実も伝えよ

2025-04-20 10:10:38 | 戦争遺跡

※下記は2020年3月14日投稿のものに加筆修正したものです。

 3月10日の東京大空襲や13日の大阪大空襲の事をテレビや新聞が取り上げている。戦後の政府は軍人や軍属に対しては補償をしてきたが、空襲被害を受けた一般人は対象外としてきた事や、政府に謝罪と賠償を求めても最高裁は認めず敗訴し、政府が放置している事も伝えている。しかし、被害者で生存者の方々の訴えの中には、「若い世代に空襲の惨さを知らせられるならうれしい」とか、「戦争が起こればどんな事になるか伝えたい」など、被害についての訴えを目立たせているものが多い。これでは十分ではないと思う。加害侵略の事実も関連させて伝え、国民のアジア太平洋戦争の実相の理解に尽力するために努力すべきである。思考停止し毎年行事的に例年通りの視点で伝えるだけでは害あって益なしである。また、記事の書き方によっては誤解を生むおそれを感じるものも目立っている。

 20年程前に中国東北部(神聖天皇主権大日本帝国時代には満州国)を訪れた事がある。黒竜江省ハルビンにも立ち寄った。その一曼街三号には「東北烈士記念館」がある。外観からして立派なギリシャ神殿風の建物で、日本の関東軍が占領後、関東軍特務機関の本拠とし、多数の反満抗日ゲリラの戦士たちを連行し、残虐な拷問で虐殺したところである。その烈士の中の一人、趙一曼を紹介したい。

 1905年、彼女は四川省の地主の娘として生まれた。1931年、関東軍の謀略による9・18事変(満州事変)の後、彼女は東北入りし、反満抗日ゲリラ部隊に加わった。そしてすぐ、東北人民革命軍(後の東北抗日連軍)第三軍第二師団の政治委員になった。そして戦闘中、重症の身で捕えられ、恐ろしい拷問を受けたが、一言も口を割る事なく病院に移された。しかし、入院中に看護婦を味方に付け脱走した。またまた捕えられ、1936年8月2日、ついに銃殺刑にされた女性である。その時の遺書を紹介しよう。

「寧ちゃんへ。

お母さんは、あなたの教育上のお世話ができないのを、とても心苦しく思います。お母さんはね、命を賭けて反満抗日の闘いに力を尽してきましたが、悲しい事にまもなく処刑されようとしています。お母さんは、二度と、あなたに会う事はできません。私のいとしい寧ちゃん!すくすくと、成長してくださいね。私はあの世から、両手を合わせてお祈りしています。私の、何よりも愛する息子よ。お母さんは、たくさんの言葉で、あなたを教える事はできなかったけれど、私の生きてきた道筋そのものが、あなたへのささやかな贈り物なのですよ。そして、大きくなってからも、母親が祖国のために命を捧げた事を、忘れないでちょうだいね。」

という内容である。

 銃後の臣民(国民)は空襲被害を受けたが、神聖天皇主権大日本帝国政府の為政者職業軍人たちの軍事侵略政策によって臣民(国民)は、徴兵兵士として加害者でもあり、空襲被害を受けた銃後の国民がその加害を支えていた事を頭に刻み込んでおかなければ、物事を正しく思考・判断できない。また、爆弾や焼夷弾の集中投下(空襲)で市民もろとも焼き殺す「皆殺し戦争」は、総力戦といわれた第2次世界大戦から生まれた戦術で、その最初ナチス・ドイツのヒトラーによる1937年4月のゲルニカ爆撃であり、世界中の非難を浴びている事。そして、それを真似たのが大日本帝国政府で、1937年7月の天津爆撃は、抗日運動の中心といわれた南開大学に集中して行ったので、国際的非難は、ゲルニカ爆撃よりもさらに高まった事。国際連盟も「世界を通じて恐怖と義憤との念を生ぜしめる行動に対しては、なんらの弁明の余地なき事と宣言し、ここに右行動を厳粛に非難す」との声明を出している事。しかし、帝国政府は1939年5月からは重慶に対してさらに大規模な無差別爆撃を実施している事。その先で米国が日本各地に対する爆撃や原子爆弾投下を行っている事を理解しておく事も、原子爆弾使用を認めるのでなく、大切な事である。また、東京大空襲や原爆投下を含む日本に対する無差別爆撃の米空軍総司令官はカーチス・ルメイ大将であったが、昭和天皇は敗戦後の1964年に彼が来日した際、最高位の「勲一等旭日大綬章」を贈っている事をどのように理解するのかという事も、日本に対する空襲とその被害を正しく判断認識するうえで重要である。

(2021年3月15日投稿)

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伊藤博文を顕彰する菩提寺「博文寺」が敗戦まで韓国ソウル南山にあった、伊藤を讃える安倍政権の歴史認識は偏向している

2025-03-25 17:16:10 | 戦争遺跡

 ※以下は2016年10月29日投稿のものを再投稿したものです。

 ※別稿「明治150年記念式典反対 大日本帝国憲法を称賛し国民のルーツである日本国憲法を否定する行為」を合わせて読んでください。

 韓国併合後の1932年10月26日(伊藤の24周忌)からアジア太平洋戦争の敗戦まで、現在の韓国ソウル南山の東(奨忠壇公園東の高台)、現在韓国最高級ホテル「新羅ホテル」があるあたりに、朝鮮総督府の事業として伊藤博文を顕彰する事を目的に造営された、菩提寺「博文寺」が存在したという事はあまり知られていない。正式名は「春畝山博文寺」で、「春畝」は伊藤の「」であり、元々伊藤の「祠堂」があった。

 菩提寺とはいっても、墓も檀家もない寺であったが、1930年代の日本では「大陸旅行」ブームが高まり、朝鮮や「満州」への観光、視察、修学旅行が盛んになった。京城(1910年韓国併合後、日本政府が改称)に立ち寄った旅行者の見学先の一つとして組み込まれていた。

 1930年代制作の絵ハガキの説明文によると、「博文寺は渓流や丘がある美しい緑に包まれた奨忠壇公園の丘上にある故伊藤博文公を祀った寺院であります。この寺院は昭和7年に竣工した曹洞宗の立派な鉄筋コンクリート造りです。吾々は明治偉勲の霊を弔い、その風貌を偲びつつ塵一つ落ちていない清浄な境内は勿論、鬱蒼と茂る松林をわたる風は岩にむせぶ渓流に和して、風韻洵に掬すべき四辺の風光を賞で乍ら散策する事は実に意義深いことであります」と書いている。

 日中戦争期には、戦死者を対象に「韓国併合功労者感謝慰霊祭」(1939年11月)などの国家的行事が開催された。

 造営の発端は、伊藤が統監であった頃に秘書官を務めていた児玉源太郎の長男・児玉秀雄が1929年に朝鮮総督府(第2次斎藤実総督)政務総監に就任した時に、伊藤を顕彰する施設を作る事を提唱した事にある。 

 財団法人「伊藤博文公記念会」が組織され寄付金を集めた。「記念会」は「伊藤博文公の徳風を敬仰し、赫々たる偉業を永く後世に記念する」、「公の冥福を追修し併せて朝鮮に於ける仏教の振興を期し、精神的結合を図り、以て朝鮮統治に貢献」する事を目的とした。

 設計は、東京帝国大学建築学教室の教授・伊東忠太(平安神宮、築地本願寺、朝鮮神宮も設計)で、鎌倉時代の禅宗寺院様式に朝鮮風を加味したもの伊東は地理的位置も考慮し、京城の北に日本政府の朝鮮統治機関・朝鮮総督府(1910年)、その南の南山に朝鮮全土の総鎮守府として天照大神と明治天皇を祀る朝鮮神宮(1925年)、そして総督府から南東に「博文寺」を置いて、京城をその中に取り囲むようにした。

 造営された「南山」は、李氏朝鮮王朝が名づけた「聖山」で、山頂に山神の祠「国師堂」がある朝鮮民族にとって開国精神が宿っている由緒深いところであった。また、第26代高宗皇帝が1900年に、閔妃暗殺事件の際に戦死した大臣を讃えて祠堂「奨忠壇」を建て、抗日の象徴として毎年春秋に祭祀を実施していたところであった。

 しかし、「国師堂」は、朝鮮神宮を建てる際に、ソウル北西の仁王山」へ移転させた。また、「奨忠壇」は、1908年、対日感情を悪化させるという理由で祭祀を禁じ、さらに1919年には、一帯に「」の木を植えて「奨忠壇公園」として公園化し総督府が管理するようにした。つまり、朝鮮民族の民族精神を抹殺し、日本人に同化させるために、その痕跡を隠滅したのである。

 そのような準備を整え、1932年、「公園」の東方に伊藤博文を顕彰する「博文寺」を造営したのである。

 さて本堂はコンクリート造りであったが、その他の建物の資材はどこで調達したのか。一言で言うと、王朝の宮殿の建物を移築したのである。例えば、庫裏は景福宮の「濬源殿」、鐘楼も景福宮の「石鼓壇」である。門は「慶煕宮」の「興化門」である。

 景福宮は、豊臣秀吉による文禄慶長の侵略により完全焼失したが、1865年に高宗の時代に復元された。しかし、朝鮮総督府は、主要殿閣を壊し、日本人料理店や寺院の装飾建築物として処分したり、京城の日本人密集地帯であった南山洞、筆洞、竜山などの日本人の住宅として売却した。

 集中的に撤去し始めたのは1915年夏に「景福宮」を会場として開催した「朝鮮物産共進会」(始政5周年記念事業)からであった。展示館を作るために大小の殿閣を壊し、7万坪の敷地を準備したのである。また、1929年には「朝鮮博覧会」(植民地政策20周年記念事業)が開催され、景福宮は完全に外見だけしか残らなくなったのである。歴代国王の肖像画を祀った「濬源殿」などは「博文寺」に移築され、1935年には一般公開された。

 ついでながら、昌慶宮には1907年に総督府は、動物園を開設した。22年には王宮内にを植えて、完全に公園化し、24年からは夜間公開を始めた。

 昌徳宮文禄慶長の侵略で完全焼失したが、総督府が再建し内部は完全に日本式庭園に変えた。

 慶煕宮は、1900年代に、日本人が宮内に学校を造るために破壊した。

 徳寿宮は、元々慶運宮であったが、1907年の「ハーグ密使事件」の後、高宗皇帝を退位させるとともに総督府が名称を変えたのである。「大安門」も同時に「大漢門」に変えた。意味は「大泥棒が住むところの門」というもので、総督府による皇帝に対する腹いせである。

朝鮮民族に対する植民地政策、それは朝鮮民族の民族性民族精神を抹殺し、日本人に同化させる政策であるが、日本政府朝鮮総督府はすでにこの時点から着々と進めており、その苛烈さがどのようなものであったかが感じとれるであろう。日本政府は韓国皇族については韓国併合によって日本の皇族に編入していたのである。これ以降の民族性抹殺政策は周知のとおりである。

 さて、この「博文寺」は1932年10月26日に落成した。この時、昭和天皇銀製の香炉とともに香華料を下賜し、日本の皇族もすべて花瓶を下賜した。

 1945年日本の敗戦による、解放後、博文寺は仏教系青年・学生寮として使用されたが、壊されたのであろう。その後その場所に、迎賓館が建設され、1970年代には韓国最高級ホテル・新羅ホテルも建設された。また、南山の朝鮮神宮も取り壊され、そこには伊藤博文を暗殺した朝鮮民族の英雄として安重根の碑と資料館が建設されている。さらに、景福宮に建設した朝鮮総督府庁舎も取り除かれた。

 ※最近、安倍政権は「明治150年記念式典」を実施する事を発表したが、それは彼らが過去の日本の真実の姿を隠滅し、彼らにとって都合のよい事だけを取り上げ称賛し、国民に対して「明治以降の日本は素晴らしい国である」という「作り話」(歴史を書き換える歴史修正主義)を作り信じさせ、それを誇りに思わせ、彼らの意のままに従う人間に改造し、憲法を改悪し、理想とする大日本帝国を復活させようとしているという事である。「明治100年記念式典」を実施した事支持した事は過ちである。それに気づき再び過ちを繰り返してはならない。我々のルーツは「日本国憲法」である。安倍自民党の歴史認識は偏向しており、無批判に受け入れてはいけない。

 この時代錯誤の安倍政権を支持翼賛する事は、安倍政権と同類同罪の否定的な評価を受け、自らの生活を破滅に導くであろう。 

  

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行楽地「高尾山」麓に残る東京都最大規模の戦争遺跡「浅川地下壕」

2025-02-01 18:55:48 | 戦争遺跡

 高尾山は東京近郊では誰もが知っており多くの人々が出かける行楽地である。テレビのニュースや色々な番組でもその方面からよく話題として取り上げている所である。それはそれで良いのであるが、高尾山にはその麓に、東京都では最大の戦争遺跡が遺っている事をもっと取り上げてもらいたいものだ。

 それは「浅川地下壕」といい、八王子市の高尾町と初沢町にまたがるもので、3地区に分かれた全長約10㌔に及ぶ地下トンネル群である。

 この地下壕は、現在の武蔵野市にあった中島飛行機株式会社の発動機(エンジン)製造工場である武蔵製作所疎開工場として建設されたものである。

 この地下壕は、1944年9月頃から着工されたが、発電所やトンネル工事などを専門とする建設会社が請負い、朝鮮人労働者を働かせて建設した。のちには勤労動員の学生・生徒も働かせたが。

 工事は空襲が始まった1944年11月末以降本格化した。そして、一部で操業を開始したが、発動機10基を完成させたところで敗戦となり、地下壕は未完成に終わり、大半未使用のままとなった

 高尾山へ出かける人は、行楽で終わらせる事なく、ぜひ足を伸ばし、神聖天皇主権大日本帝国政府が遂行した侵略戦争の遺跡を訪れてほしいものだ。

参考図書:浅川地下壕の保存をすすめる会編『フィールドワーク浅川地下壕』(平和文化、2006年)

(2023年11月4日投稿)

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西南戦争田原坂の戦い以降に見る西郷軍、「玉砕」の生みの親、太平洋戦争での日本軍の戦闘とまったく同じ

2025-01-28 22:53:17 | 戦争遺跡

 西南戦争(1877(明治10)年2月15日~9月24日)田原坂の戦いで、西郷軍はどのような戦い方をしたのか。当時の新聞記事に見てみよう。一言でいえばそれは、太平洋戦争の末期の日本軍の戦争指導者の戦い方とまったく同じであったといえる。

 政府軍については、「……前報に田原坂の樹木は一寸間毎に銃丸を打ち込まれざるはなしと記したるが、官兵(政府徴兵軍)の費消する数を聞くに田原、二俣等の戦には、1日概数25万発(スナイドル銃)に下らず、その最も多き日は35万発より40万発に及び、大砲は12門にて1000発以上を打発したり」(郵便報知新聞・1877(明治10)年4月11日)

 それに対し西郷軍は、「賊兵弾薬に乏しきにや、田原坂の戦いに河原の小石を以て銃丸に用いたるよし」(朝野新聞・明治10年4月11日)。また「賊徒の屯集したる田原坂の胸壁中に、馬の骨を数知れぬ程積置きたるを見れば、兵糧欠乏ゆえ馬を屠殺して喰らいしなるべし」(東京曙新聞・明治10年4月5日)

 西郷軍は、田原坂の戦いで敗北後、潰乱状態となり、奇襲や斬り込みなどゲリラ的戦い方となり、「玉砕」という言葉を使用するようになった。

 「この頃日向の宮崎にて戦死せし賊が死体の懐中に左の通りな廻文が有りしよし、その写しは『諸隊順達』。瓦となって完からんより玉と成って砕けよとは、各自予て知る所、今更又何をかいはん、当軍さきに告示せし如く、既に金城湯池を失い、わずかに日向の一地に拠るのみ、然りと雖も未だ一人当千の勇士に乏しからず、豈おめおめと敵に降り軍門に惨刑せらるるを愧じざらんや、国に報い義を重んずる者、戮力奮戦以て同日同刻に斃れんことを期す」(浪花新聞・明治10年8月26日)と「玉砕」を命じている。

 この背景のある西郷軍幹部の当時の意識は、「最早賊徒の兵気は余程衰えたるものと見えて、この頃降伏人の云う所に拠れば、近頃は別府晋介、逸見十郎太らをはじめ賊徒の重立たる者は皆砲塁の後ろに抜刀をして控え、若しや兵士に卑怯の者か或は敵に降らんとする者あれば、直ちにその場において首を刎ね、以て兵気を鼓舞するくらいの勢いなりという」(東京日日新聞・明治10年7月24日)状況となっていた。

 この後の西郷軍の様子は、「確乎たる部署もなく亦一定の戦略もなく」「十分の糧食を輸送する事を得ず」「その糧食窮し」「その弾薬乏しく到底戦わずして自ら斃れ」「官軍に抗するものなかりき、この如きが故に賊兵の降伏は昨今最も夥しく、6000名に達したり」「西郷これ無恥の最も甚だしきものなり」(東京日日新聞・明治10年9月5日)と報道されている。

(2018年2月25日投稿)

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戦争絶滅受合法案を成立させよう

2024-09-12 16:32:44 | 戦争遺跡

 「戦争絶滅受合法案」は、デンマークの陸軍大将フリッツ・ホルムが起草したもので、長谷川如是閑(1875.11.30~1969.11.11)が『我等』(1929年1月号)の巻頭言で紹介した。2004年には高橋哲也氏が2004年1月17日付『しんぶん赤旗』に紹介した。以下に紹介しよう。

「 戦争絶滅受合法案

戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力の生じたる後、10時間以内に次の処置をとるべきこと。即ち、下の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし。

一、国家の元首。但し、君主たると大統領たるとを問わず、尤も男子たること。

二、国家の元首の男性の親族にして16歳に達せる者。

三、総理大臣、及び各国務大臣、並びに次官

四、国民によって選出されたる立法部の男性の代議士。但し、戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。

五、キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、その他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。

上記の有資格者は、戦争継続中、兵卒として召集さるべき者にして、本人の年齢、健康状態等を斟酌すべからず。但し、健康状態に就ては招集後軍医官の検査を受けしむべし。以上に加えて、上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として召集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし。」

(2024年9月12日投稿)

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