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天皇のヴェトナム晩餐会「お言葉」にない自民党政権のヴェトナム戦争特需と高度経済成長

2025-02-07 09:51:09 | ヴェトナム戦争

 2017年2月末から訪問したヴェトナムでの晩餐会「お言葉」には、ヴェトナム戦争について、一切触れていない。この背景には、安倍自民党政権の意向がうかがわれ、それを拒否しない天皇の正体が見える(天皇は歴史事実に意図的に触れないという手法で政治的役割を果たしているのである)。それは、日米安全保障条約のもとで、自民党政権がヴェトナム戦争に大きな役割を果たしていた事を日本国民に明らかにする事になるからである。それは、

 岸信介自民党政権(1957年2月~1960年7月、第1次2次含む)についてみると、アジア太平洋戦争の時期に、日本が与えた損害を賠償するという事を口実に、米国の傀儡である南ヴェトナムのゴ・ジン・ジェム政権を積極的に援助した。1959年5月に総計約5560万㌦の賠償・借款協定に調印し国会に上程した。当時の社会党をはじめとする野党は大反対した。しかし、岸政権は、「軍事施設の強化に関係あるものであるとは考えておりません」として、59年12月23日、実際は政治・軍事がらみである事が明白であったにもかかわらず、上記協定を強行採決し、批准した。その背景には、翌年の60年に予定されていた日米安保条約の改定があった。

 改訂条約では、在日米軍が日本以外の「極東地域」の防衛に任ずる事を認めているため、自民党政権は、米国のアジア戦略に組み込まれる事となった。そのため、1965年2月に、米国が「北爆(北ヴェトナム爆撃)」を開始すると、佐藤自民党政権は、日米安保条約の「極東地域」にヴェトナムも含まれる、と拡大解釈した。

 岸の次の池田勇人自民党政権(1960年~64年)も、その次の佐藤栄作自民党政権(1964年~72年、第1次2次3次を含む)も米国の要求をすべて受け入れ、ヴェトナム戦争を正当化し、米国への支持と協力を一貫して表明した。

 このような自民党政権の安保条約に基づく米国のヴェトナム戦争に対する支持・協力政策は、ヴェトナム戦争特需を生み出し、1964年10月の東京オリンピックの建築ラッシュで増えたホテルは、その後閑散としていたが、1965年末以降になると、米兵の客でにぎわうようになった。そのため日本経済は1965年前半は不況のどん底にあったが、それ以降急速に景気は回復し、72年頃まで一貫して「高度経済成長」を維持した。「高度経済成長」は「ヴェトナム戦争特需」と大きな関りがあったのである。

 その裏で、ヴェトナム人民はソンミ事件など一言では言えない悲惨な日々を送っていたのである。

 また、米国の施政権下にあった沖縄県の嘉手納基地は、ヴェトナムを爆撃するB52の常駐基地とされた。当時の太平洋統合軍(ハワイ)最高司令官シャープ提督は、「B52 が沖縄から発進した事で、住民がショックを受けているというが、私にはその理由が理解できない。我々はこの基地をいつでも自由に使用する権利を持っている」「沖縄なくして我々はヴェトナム戦争をやっていけない」と強調した。

 米国の第7艦隊の基地も横須賀・佐世保など日本であり、ヴェトナム戦争に投入された。その他あらゆる面で日本全体がヴェトナム戦争と関わったが、それについては別稿で紹介する。

 米国施政権下の沖縄はもちろん日本本土も、日米安保条約を堅持する自民党政権の政策に基づいて、米国のヴェトナム戦争を支持し協力するための兵站・補給などの基地となり、自らは傷つく事なく、特需(大企業が死の商人として)で大儲けをして「大国」になる事ができたのである

 天皇は上記のような事実について、ヴェトナム晩餐会の「お言葉」では、一切触れずに何もなかったかのように済ませているのである。これは情報操作の手法の一つである。そのようにして、知識の乏しい日本国民、特に若年層を標的に欺こうとしていると思われるのである。そしてまた、安倍自民党政権にとって都合の良い内容に歴史を書き変え(歴史修正主義)ようとしていのである。

国民は、天皇の発言や行動・生活を、先入観を持たず、科学的に(論理的実証的に)分析し真実の姿を知る努力が大切である。その事によって国民は真実の幸福を招き寄せる事ができるだろう。

(2017年4月30日投稿)

 

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天皇がヴェトナム晩餐会の「お言葉」で触れなかった事が天皇の正体を浮き彫りにする。

2025-02-07 09:50:12 | ヴェトナム戦争

 日本とヴェトナム(ヴェトナム民主共和国)との外交関係が樹立されたのは、1973年9月21日にパリにおいてヴェトナム戦争の和平協定が調印された時であった。その後、紆余曲折があったが、1992年以降、両国間の外交・貿易関係は復元し発展を遂げてきた。

 そして、2017年2月28日、天皇皇后は初めて訪問し、ヴェトナム社会主義共和国国家主席主催の晩餐会において「お言葉」を述べた。その内容は、古代から現在までの日本とヴェトナムとの交流史のなかで、友好的な印象を受ける事柄についてであった。天皇制大日本帝国政府のヴェトナム侵略の罪業と、敗戦後に自民党政府が沖縄県民に対し、米国によるヴェトナム戦争の後方基地として犠牲を強いた歴史と、現在の安倍政権が沖縄の米軍基地を維持強化しようとしている事(辺野古新米軍基地建設)に波及していく事を避けたためである。

 しかし、それは交流史のなかでも、現在のベトナム国民(1976年からヴェトナム社会主義共和国が気分を良くする事や日本に対する印象を悪くさせない「明るい部分」だけを取り上げており、ヴェトナムに対して行った日本の「罪業」や「暗部」については一切触れていない。この事は、ヴェトナム国民だけでなく、日本国民、なかでも沖縄県民をも欺瞞するものであり、科学的研究の成果を否定し、歴史を修正する効果を狙った行為というべきである。

 たとえば、「東遊(ドンズー)運動」について、その運動に大日本帝国政府がどのように対応したのかという点を触れていない。「東遊運動」はファン・ボイ・チャウが起こした、ヴェトナム青年をフランスからの独立運動戦士として育てるために日本留学させる運動で、1905年~09年までの4年間に約200人が日本に留学した。しかし、1907年6月、大日本帝国政府はフランス政府との間で、フランスがヴェトナムを支配する事と、日本が朝鮮を支配する事を、互いに認め合う「日仏協約」を結んだ。そして、フランス政府は日本政府に「ヴェトナム独立運動」の取り締まりを求めたのに対して、日本政府はヴェトナムの留学生、そしてファン・ボイ・チャウも追放し「東遊運動」を粉砕したのである。

 アジア太平洋戦争においては、大日本帝国軍(皇軍)はヴェトナムで「略奪」の限りを尽くした。家屋、車両、船舶を没収し、あるいは住民を追い立てて土地を占拠して、飛行場にしたり要塞を築いたりし、あるいは牛、豚、鶏を奪って兵士に与え、あるいはどこでも農民の熟した稲を刈って馬に食わせ、こうして一束のわら、一束の野菜、一個の卵にいたるすべてを略奪した。また、石炭、米、とうもろこしを日本に飢餓輸出する事を強要した。その結果、1945年には200万人にものぼるヴェトナム国民が餓死に追い込まれた。これは当時の人口の1割に近かった。

 1954年~1975年までは、ヴェトナムは北部(1945年9月2日にヴェトナム独立同盟の指導者であったホーチミンを大統領として樹立されたヴェトナム民主共和国)と南部(ヴェトナム共和国)に分断され、日本政府は南部だけと経済関係を維持した。また、日本政府はアジア太平洋戦争敗戦後は米国に強く依存従属するようになったため、インドシナ戦争の休戦協定(ジュネーブ協定)の調印を拒否した米国が、ヴェトナムの南北統一に猛反対していたゴ・ジンジェムを大統領として樹立した南部のヴェトナム共和国を承認した。

 1965年から米国は、南ヴェトナム人民が結成した南ヴェトナム民族解放戦線(ヴェトコン)を支援した北部のヴェトナム民主共和国への爆撃(北爆)を開始した。その時の米軍の爆撃機の基地は米国軍政下に置かれていた沖縄県であった。1965年5月7日、佐藤首相は米国のヴェトナム民主共和国への爆撃に対し支持を表明政府見解は「米国軍が沖縄の基地をどう使おうと、日本政府は口出しできない」という事であった。そして、日本本土は朝鮮戦争に次いでヴェトナム戦争によっても高度の経済成長を獲得したのであった。つまり、米国の戦争に加担する事によって経済成長を獲得したのであった。ちなみに、ヴェトナム戦争でのベトナム人死者は1995年公式発表で300万人強(アジア太平洋戦争での日本人死者数と同じ)という。また、米国軍の砲爆弾使用量は、太平洋戦争で日本本土に投下した量の900倍ともいわれる。

 「佐藤首相の北爆支持」に関して、鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』は「本土の日本人は……この(平和憲法があって戦争参加が許されない)状態を賛美する事ができたのに対して、沖縄に住む日本人は、ヴェトナム戦争を自分が助けているという事に対する現実認識をもっていました」と述べている。

 ヴェトナム戦争に結果、沖縄県では、基地拡張のための新たな土地取り上げや、様々な事故などによる被害が続発し、1968年11月にはB52爆撃機が嘉手納基地で墜落大爆発を起こした事もあって、祖国復帰運動が盛り上がり、基地機能の低下を恐れた米国は施政権の返還を決意したのである。沖縄県は日本復帰本土復帰に際して、「米軍基地の存続や自衛隊の配備に反対して、基地のない平和の島(核抜き本土並み)としての復帰を希望する建議書をまとめたが、佐藤政権は国会で取り上げる事もせず沖縄返還協定と関連法案強行採決し、1972年5月15日、返還協定は発効(核兵器の沖縄配備容認の密約が交わされていた)した。

 改めて天皇の「お言葉」を読み、腰をかがめ耳を傾けて元残留兵の妻へ「いろいろご苦労もあったでしょう」という天皇の話しかけに対して人々が感謝感激する姿をも含めて、天皇は国民に対してどのような役割を演じ果たしているかを考えると、現行天皇は、安倍政権を補完する役割を果たしている事が明白であり、近代日本、特に敗戦後の政治権力は天皇と内閣がセットで補完し合って機能するようになっており、互いにそれぞれの与えられた役割(天皇=権威と内閣=権力)を演じ果たす事によって、国民支配を巧妙にできる二重構造となっているという事である。この構造は昭和天皇についても同様で、自民党内閣とセットであった。

 天皇は、安倍内閣と互いに補完し合う関係を拒絶し、昭和天皇の罪業について自身に都合の悪い事には無関心な態度をとるのは非常識で、すべてを継承し自身の姿勢を明らかにしなければならない事を自覚し、自ら新たな罪業を生み出す事のないように、上から目線の傲慢な考え方や「思いに寄り添う」などの同情同情は相手を対等と認めず差別以外の何物でもない)と同義の言葉を使用する事もやめ、「ひざまずいて話す」事によって「寄り添う」ように見せるという演技演出(最近、安倍首相もそれが国民に与える効果に気づきまねるようになった)もやめ、国内外を問わず「罪業の謝罪と人権平和のために尽くす事を誓う旅」こそ積極的に行うべきである。沖縄県民の下へ、「反戦平和」を主張した事を治安維持法違反として処罰した人々の下へ、政府の侵略戦争行為により生じた空襲で被害を受け人生が歪められた人々の下へ、等々……。

 2016年8月の「お言葉」に「人々と共に過ごして来ました」「常に国民と共にある」「国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう」など、「国民と共に」という言葉を多用しているが、それは自分が見えていない自己中心で自己満足の言葉である。「共に」生きるためには努力がいる。それは、相手を理解するための努力と、相手に自分を知ってもらうための努力である。そしてその際に、自分の価値観を押しつけない事である。押しつけのある関係では「共に」生きる事はできないのである。天皇は自己の「価値観の押しつけ」によって国民生活を歪め統制している事を自覚すべきである。

 それを解消するためには天皇は何をすべきか。それは、憲法の「政教分離原則」を遵守する事である。具体的には、「古事記」「日本書紀」に基づく皇室神道(かつての国家神道の核)への信仰やそれに基づく行為をやめる事である。天皇という「公人」が宗教行為を公然と行う事、そのために「公金」(税金)を使う事は「憲法違反」で許される事ではないと定めた「憲法」に主権者である「国民」が賛同しているからである。

(2017年3月5日投稿)

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DICASの協議内容は基本的に「ヴェトナム戦争」での日本政府の役割と同じ

2025-02-07 09:49:15 | ヴェトナム戦争

 アジア太平洋戦争敗戦まで日本を支配していた神聖天皇主権大日本帝国政府は、仏領インドシナ連邦(ヴェトナム王国はその一部)を1940年9月から45年8月までの5年間支配していたが、敗戦後に成立した日本国政府は戦後のヴェトナム(ラオスとカンボジアは1953年に仏領インドシナ連邦から完全独立)とどのように関わっていったのか?それはインドシナ戦争ヴェトナム戦争にどう関わっていったのかということでもあった。その時期の内閣の政策からその関わりを紹介したい。

岸信介内閣(1957.2.25~1960.7.15)

 神聖天皇主権大日本帝国政府軍が1940年9月北部仏領インドシナ連邦を侵略した事をきっかけに、1941年5月ホーチミンを指導者として結成されたヴェトミン(ヴェトナム独立同盟)独立闘争を開始した。1945年8月15日大日本帝国政府軍が降伏した2週間後の9月2日、ホーチミン大統領としてヴェトナム民主共和国を建国した。しかし、旧植民地宗主国であったフランスは独立を認めず、ヴェトナム南部にヴェトナム国を建国し、インドシナ戦争(1946年12月~54年7月)となった。これに対しアメリカフランスを援助(アメリカが戦費と武器、フランスは肉弾提供)したがフランスは敗北した。1954年7月18日ジュネーブ協定により、1956年に南北統一選挙の実施を定めた。しかし、アイゼンハワー米国大統領(任1953.1~61)はドミノ理論(もし、インドシナが共産政権に支配されるならば、タイ・ビルマなどの近隣諸国も、共産主義の手に落ちる事になるから、アメリカの安全のために実施可能なあらゆる措置を取る)を根拠に調印を拒否。1954年9月東南アジア条約機構(反共集団安全保障体制)を組織し、ヴェトナム南部に、協定に反対していたゴ・ジンジェム(任1955~63)大統領に擁立してヴェトナム共和国をつくり軍事援助し、北緯17度線での南北分断を固定化しようとした。54年10月にはアイゼンハワー大統領はゴ・ジンジェム政権の支持を表明した。

 第2次岸内閣(1958.6.12~1960.7.15)ゴ・ジンジェム政権を積極的に援助した。1959年5月13日「大東亜戦争(アジア太平洋戦争)」でヴェトナムに与えた損害を賠償するという事を口実にして、ヴェトナム共和国政府賠償・借款協定に調印し、同年12月23日批准強行採決した。1960年1月19日には新安保条約に調印、5月20日自民党は新安保条約を単独強行可決。6月19日安保反対闘争の混乱の中で新安保条約批准自然成立させた。6月23日には条約発効し、第2次岸内閣は総辞職(7月15日)を表明した。改定された新安保条約は、在日米軍が日本以外の「極東地域」の防衛に任ずる事を認めていたため、自民党政府は、アメリカのアジア戦略に組み込まれる事となった。

池田勇人内閣(1960.7.19 ~1964.11.9)

 1964年8月2日ジョンソン大統領(任1963.11~69)は捏造した「トンキン湾事件」を口実に、北爆(ヴェトナム民主共和国への直接爆撃)」を命じ、1965年2月7日から開始した。3月8日には大量の地上軍の派遣も開始し戦争を拡大した。自民党政府新安保条約の「極東地域」にヴェトナムも含まれると拡大解釈し、ヴェトナム戦争を正当化し、アメリカへの支持・協力を一貫して表明した。1964年8月11日第3次池田内閣(1963.12.9~1964.11.9)はアメリカの軍事介入を支持し、ヴェトナム共和国(サイゴン)政権へ緊急援助を決定した。又、「三矢研究」(1963年度総合防衛図上研究実施計画)では、第2の朝鮮戦争を想定し、「有事立法」による日本の戦時体制への転換、米軍への全面支援、自衛隊の海外派兵や日本の戦場化、日本を基地とする核攻撃も検討対象とした。1965年に国会(第1次佐藤栄作内閣)で明らかとなった。

佐藤栄作内閣(1964.11~1972.7)

 第1次佐藤内閣(1964.11~67.2)では、1965年1月訪米しジョンソン大統領と共同声明を発表。内容は「アジアの経済開発に対する日本の役割の増大」を強調したもの。アジア周辺諸国が兵力派遣でも経済面でも、ヴェトナム戦争を支える事ができるように、同時に、それらの国々の反共政権が安定して存続できるように、日本政府が経済上の役割を果たし、アメリカの負担を軽減ないし肩代わりする事を合意したというものである。1965年9月には、防衛庁防衛研究所小谷秀三郎がヴェトナム共和国政府へ赴き、「北爆」中の米軍機に搭乗した。1966年9月には、防衛庁は「北爆の効果や最新の通常兵器の効用、局地ゲリラ戦にどのような形で近代兵器が適用されるかを視察する」、としてヴェトナム共和国へ軍事視察団を派遣した。

 第2次佐藤内閣(1967.2~1970.1)では、1967年4月21日の衆議院予算委員会では佐藤首相は「武器・兵器の輸出は、防衛・自衛のためなら差し支えない」と答弁。日本の軍需産業界から強い要望があり、防衛懇話会経団連会長石坂泰三会長)や防衛生産委員会防衛装備国産化懇談会(元防衛庁長官船田中会長)などでは兵器輸出を公然と語っていた。豊和工業はヴェトナム共和国へ派兵していたタイ小銃1万丁を輸出した。太平オーバーシーズは フィリピンマルコス政権と弾丸製造設備(旭精機製)の買い付け契約を締結した。三井物産マルコス政権と火薬製造設備の買い付け契約を締結した。1967年10月21日佐藤首相はヴェトナム共和国政府を訪問。11月15日佐藤首相は訪米して日米共同声明を発表した。

ヴェトナム報道に対する政治的干渉

 1965年10月ライシャワー駐日大使は、朝日の秦正流外報部長と毎日の大森実外信部長を名指しで「日本の新聞はヴェトナム情勢について均整のとれた報道をしていない」と批判。自民党政府は「放送人政治懇談会」を発足し、テレビ番組や新聞記事を細かくチェックし、放送中止や記事を差し替えさせた。1965年5月9日放映の日本TVノンフィクション劇場「ヴェトナム海兵大隊戦記・第1部」は、南ヴェトナムでのアメリカ軍による虐殺行為を報道したため、放送直後、橋本登美三郎官房長官アメリカ大使館から申し入れがあり、再放送と第2、3部の放送を中止した。TBSラジオの「奥さま十時です」は、スポンサーから「ヴェトナムの話題はやめてほしい」という注文により、67年5月26日の放送内容を一部カットした。

 秋篠宮夫妻は、上記のようなヴェトナムに対する自民党政府の対応について、どのような認識をもって訪問したのであろうか?また、メディアは、例えば「日本は最大の援助国としてヴェトナムの発展を支え、ヴェトナムは右肩上がりの成長を続けてきた」とか「日本とヴェトナムは開発や投資で成長を遂げ、関係を深めて来た」などとしか報道していない。このような報道では一人一人の国民が互いに大切にし合うために理解を深めるには役立たないであろう。

○日本政府・企業がアメリカ軍に提供した物資は、

 弾除け用砂袋、緊急飛行場滑走路の鉄板下に敷くシート、基地建物用のプレハブ・ハウス、迷彩服、軍靴、有刺鉄線、防虫網、ダイナマイト、釘、木材、セメントなどである。ヴェトナム共和国の米軍基地販売所には、カメラ、時計、ラジオ、テープレコーダー、装飾品、陶磁器など、ソニー、ナショナル、ヤシカ、セイコー、ノリタケチャイナなどの製品が並び、大商社、大小メーカー高島屋大丸などのデパートが関わっていた。自動車部品トヨタ自動車が関わり、石油業界はジェット燃料JP4を供給した。

 米軍機の修理には、三菱重工川崎航空機(空軍)、日本飛行機新明和工業(海軍)、富士重工(海兵隊ヘリコプター)などが関わった。軍艦船の修理には、佐世保横須賀の米軍ドッグで日本人作業員が行った。野戦病院の建設には、大成建設・間組などが関わった。米軍関係のトラック・バス輸送など及び整備士派遣国際興業株式会社が関わった。

 武器生産には、火薬・油脂メーカーがナパーム弾の製造(92%は日本製)に関わった。

 野戦病院(傷病兵の治療)には、陸軍では埼玉県朝霞市米軍基地内野戦病院、埼玉県入間郡ジョンソン基地内第七野戦病院、神奈川県相模原座間病院、横浜市根岸第106総合病院、東京都北区米陸軍極東地図局跡地王子野戦病院、海軍では横須賀基地海軍病院、空軍では立川基地空軍病院などを建設し、地元の中小建設業者から大手では大成建設・間組などが参加した。それらの病院では、多くの日本人の医師・看護師・検査員・雑役夫などが働き、米軍には日本の会社が様々な薬品医療機材を納入した。

 農産物の調達には、米軍が農協からカリフラワーなどの野菜や卵などを直接買い付けた。

内地や沖縄の米軍関係のトラック・バス輸送の最大請負業者は国際興業株式会社(社長・小佐野賢二)。

(2023年10月6日投稿)

 

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