「松井氏、吉村氏(日本維新の会)たちは狡猾な金儲け第一主義、偏向した価値観を有し人権尊重意識は欠片もない」 goo.gl/PQkWD9
— takechan (@take1take26) 2018年5月24日 - 01:15
2018年4月28日、維新の会の吉村洋文・大阪市長はツイッターに、フィリピン・マニラ市の慰安婦像撤去に関連して、以下の内容を掲載した。
「慰安婦像撤去。昨年建てられたマニラの慰安婦像が重機で撤去された。サンフランシスコ市の慰安婦像も重機で撤去してもらいたい。日本の外務省には国民の税で莫大な予算がついているんだから同盟国アメリカの一自治体に設置された慰安婦像の撤去に努めて欲しい。」
上記の内容にはご丁寧な事に、像を掘った後に残った荒々しい大きな穴を写した写真まで添付していた。ここには彼の人間性価値観がまざまざと表れていると言って良いと思う。ちなみにサンフランシスコ市の件については、大阪市議会は、維新の会が提案した「姉妹都市提携の解消を求める決議案」を2度にわたって否決した。しかし、吉村氏はこれらの声(その背景にある市民の声)を無視(民主主義を無視否定した独善的姿勢)し、像建設完了直後(2017年12月12日)に亡くなったリー市長の後任が今年の6月に決まった時点で、姉妹都市関係の解消を申し入れる事を、昨年12月に決定している事を付け加えておく。この点においても吉村氏は自らいかに偏向偏執した価値観の持ち主であり人権尊重の意識を持ち合わせていない人物である事を明かしている。
2018年4月12日には吉村氏は、サンフランシスコ市の高校生らが姉妹都市関係の継続を願って投稿した「ユーチューブ」のメッセージに対しても、彼の価値観こそが正当であるとする姿勢を変えず「思いは分かったが、SF市が慰安婦像を設置する事の背景をよく考えてもらいたい」とSF市に責任転嫁する始末であり、世界の人々に対して改めて彼の偏向した独善的な価値観を表明し、恥の上塗りをしている。この事は吉村氏を市長に選んだ主権者大阪市民の価値観に問題が存在している事を映し出しているものでもある。
このような人権尊重の意識を持ち合わせない価値観は維新の会に所属する人々はもちろんの事、支持する人たちにも共通してみられる特徴であると言って良い。松井大阪府知事も含めて(橋下徹氏ももちろんであるが)日本維新の会は金儲け第一主義拝金主義に偏向偏執した価値観に基づいて物事を判断しているのである。
その価値観は、「カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法」や一部の専門職を労働時間規制から完全に外す「高度プロフェッショナル制度」に対して安倍自公政権と結託し修正協議をして成立させようとする姿勢にも表れている。そこには、IRでの金儲けに大きな関心を有していても、ギャンブル依存症や国民意識に与える影響について真剣に責任を負う誠意は見られない。また、高プロ適用を拒否した場合(同意しなかった場合)、弱い立場にある労働者が企業側から働く権利に対し差別的な処遇(人権侵害)を受け働く権利を奪われるのではないかという不安(同意せざるを得ない立場にある事)を理解しようとしていないし、適用に同意して不幸にも命を失う(健康を損ね病気になる)結果を招いた場合、同意した者の自己責任とされる可能性が大であるにもかかわらず、彼らは働く者の人権を保障するという価値観に基づく判断をせず、働く者の側の価値観を尊重していない。それは維新の会の価値観が、働く者や主権者国民の価値観と異なるものであるからだ。金儲けにおける安倍自公政権との取引に過ぎないのである。
2018年4月12日には、吉村氏は、市立の小中学校と高校の教員の大卒の初任給を2019年度採用分から引き上げ、全国で最高額にする事をめざすと発表したが、この判断の背景となっているのも同様の価値観である。札束を餌にちらつかせて人材を招きたいという事であるが、この価値観自体が教育界のあるべき常識から外れているというべきであるし、これまで採用してきた教員との間に軋轢を招き分断を引き起こそうとするものである。また、札束に心動かされる教師にろくな教師はいないだろうし、高額目当ての教師はそもそも教師になる資格はないであろう。吉村氏(彼だけでなく松井氏や維新の会)にとっての「優秀な教師」とは彼らにとっては都合が良いが、人権尊重の意識を有さない偏向した人格の持ち主である事を思わせる。
それは例えば、大阪府教育庁が2018年4月17日に情報公開条例に基づいて明らかにした、学校法人・森友学園の小学校設置認可の申請書類(2014年10月提出)からも明らかである。申請書の「教育内容」には、「皇室・神ながらの道に沿った教育勅語」などを尊重したカリキュラムを標榜しており、「教育理念」を示す図には「日本人としての誇り・貢献」「五箇条の御誓文」「教育勅語」「歴史と伝統に基づいた教育」などの記載がある。総合的な学習の内容は「日本国論」「修身」「国史」「礼法」などを説明。国語と社会では「国家観の醸成」に向け「日本人としての確固たる背骨」を心に刻み、古事記と日本書紀を「しっかりと伝えていきたい」としている。つまり、神聖天皇主権大日本帝国下の教育内容である教育勅語の精神信奉する教員たちにより、生徒たちに教育勅語の精神を植え付ける事(教化)を目的とした学校だったのである。
このような内容であるにもかかわらず、大阪府は「学習指導要領に沿って指導するという申請があり、そのような範囲内であれば問題はない」という意味不明の屁理屈をつけて受理していたのである。さらには、認可の審議会(2016年12月22日)で出席委員が「安倍首相の奥様が名誉校長になられたという(週刊誌の)記事について、その経緯の裏づけとかどういうバックでなったのか、府は把握しているのか」と指摘したが、事務局は「正式になったという報告はない」と無責任にも故意に虚偽の答弁をしていたのである。これは主権者大阪府民を欺瞞(権利の蹂躙)し大阪府政を私物化した行為であったのだ。
また、松井氏や吉村氏など維新の会がいかに大阪府市の行政を私物化し、偏向した価値観に基づいて実施しているかについては、府教育庁や市教育委員会が教員に対して思想信条の自由を認めない憲法違反の条例を制定し、卒業式で国歌斉唱を強制し、起立しなかった教員を処分している事にも表れている。さらに、処分についての会議の議事録やメモを公文書として作成すると指針に定めていながら残していない事実が存在(実態は市人事監察委員会の部会、日時や出席者、議題を簡単に記した「会議要旨」だけしか作っていなかったため、情報公開請求に対し市は「存在しない」と非公開を決定していた)した事が明らかになっている。このような事では、そもそも処分自体不当であるが、処分決定の議論が説明責任を誠実に果たせるように行われていると考える事はできず、端に維新の会にとって価値観の異なる御しにくい存在とみなし、処分する事によって従わせようとする(又は辞めるようにする)とともに、他の教員に対する見懲らしにしているとしか考えられない。処分した教員には希望を認めず、定年退職後の再雇用はしないという姿勢で執拗である事にも表れている。
明治時代以前、比叡山や高野山や宮島など神社仏閣においては女人禁制の結界を定めていた。しかし、欧米諸国との関わりの中で明治政府が1872(明治5)年、太政官符(公文書)により廃止令を発した事により神社仏閣における女人禁制の結界は廃止された。
そのきっかけは、同年3月15日、滋賀県から大蔵省への伺いに「外国人が入京するについて、その散歩区域が定めてあるが、この度京都に博覧会が催されるので、琵琶湖遊覧が許された。これについて自然、外国人が婦女子を携えて比叡登山を望む事があるかも知れぬ、その時これを許さないというわけにはゆかぬが、外国人ならば婦女子といえども登山を許し、我が国の婦人にはこれを許さぬというのは、公平を失う、如何取計らうべきや」という内容があり、大蔵省がこれに対し「女人結界の事は、外国人登山に関係なく、千山万獄何処として人間の跋渉を禁ずべき理ある事なし、断然改めるべし」と意見した事にあった。
「ソンミ村虐殺事件(ヴェトナム戦争)の経緯とカリー指揮官のその後、そして、佐藤栄作自民党政権のいざなぎ景気との関係」 goo.gl/kzKqp6
— takechan (@take1take26) 2018年5月7日 - 22:10