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つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

天皇教(国家神道)復活の地ならしか?伊勢志摩サミット

2015-06-18 11:52:31 | 宗教

 「伊勢神宮」が今後脚光を浴びる出来事が起こった。安倍首相が6月5日午後、来年日本で開催されるサミットの開催地を「三重県伊勢志摩」に決定したのです。合計8都市が立候補していたが、最後に立候補した三重県伊勢志摩に決定したのです。伊勢志摩の立候補のきっかけは、安倍首相が今年の1月5日に伊勢神宮を参拝した時にあったようだ。広島市も立候補していたが、政権幹部から「被爆地訪問は米国が嫌がるだろう」という声が上がり実現しなかったという。親分であるアメリカのオバマ政権の気持ちを子分の安倍政権が気遣ったという事か。
 なぜ、伊勢志摩に決めたのかという事について、安倍首相は、「日本の精神性に触れていただくには大変良い場所だ」「日本の美しい自然、豊かな文化、伝統を世界のリーダーたちに肌で感じてもらえる場所にしたいと考えた」。政府高官は「やはり『伊勢神宮の凛とした独特な空気を外国首脳にも感じてもらいたい』という首相の意向が一番大きい」という。この決定の理由を知って即座に、安倍首相が何を企んでいるのかを直感した。それは伊勢神宮を生活に身近な存在とさせ違和感を払拭させ親しみを感じさせ憲法第20条や第89条の「政教分離の原則」の判断基準を曖昧にし空洞化させようとしているという事です。メディアは自主規制なのか圧力がかかったのか分からないが、多分どちらもだろうが、この事について何の反応もしない事が残念であり、困った事です。しかし、それだけメディアは感度が鈍ってきたという事ですかね。
 さて、決定の大きな理由が「伊勢神宮」が「日本の精神性」に触れる事ができる場であるという事なのですが、果たしてどういう事なのか。この言葉には大きな意味が隠されていると考えるべきです。
 安倍はこれまで「侵略の定義は学問的に定まっていないと言っていいだろうと思うし、国と国の関係においてどちら側から見るかで違う」と発言してきた。そしてアジア太平洋戦争を「侵略戦争だと認めていない」。つまり、大日本帝国とその戦争「大東亜戦争」は正しい「聖戦」だったと確信しており、侵略戦争に対する反省を「自虐」と規定し脱却する事を主張している。そしてさらに日本国の在るべき姿としての「大日本帝国」への回帰をめざして「戦後レジーム」を払拭する事を表看板にしてさまざまな政策を実行しています。この考え方が偽善であり、間違いであるとする事が常識となっているにもかかわらず、彼は認めないし、改める気持ちももっていない。また、彼にとっては彼と同じ考えに立たないものこそ非常識なのであり、彼の考えに従う事を強制し、強制する事は正しいという理屈に固執している。この態度は傲慢そのもので、DV的で、大日本帝国の手法そのものともいえる。しかし、彼は本気でそう考えているのです。
 なぜこうなるのかというと、彼が戦前の為政者の側に立って物事を判断しているからなのです。そして、先の安倍の「伊勢神宮」についての発言・評価も、戦前の大日本帝国の為政者の側に立ったものなのです。だから私たちは、安倍の側に立って評価するのではなく、天皇制によって支配された国民の側に立って、「伊勢神宮」を評価しなければなりません。そうでなければ、安倍政権の価値観に取り込まれ、彼らと同じ側に立ってしまうことになり彼の思うつぼにはまってしまい利用されてしまいます。
 つまり、「伊勢神宮」に対する評価は、近代日本の、特に戦前の為政者の側に立つか、それに支配された国民の側に立つかでその評価が大きく異なるという事です。
 それはどういう事か?率直に言えば、戦後日本では「伊勢神宮」は政教分離の原則により一宗教法人となったが、戦前の大日本帝国では国民の精神的支柱とされていた「国家神道」、別の表現をすれば「天皇教」の中心施設であり軍国主義を推進したのです。安倍はその国家神道が果たした役割、犯した犯罪に対して何の疑問も反省も抱いていないだけでなく、むしろそれとは逆に崇高な価値高いものとして評価しているのです。「伊勢神宮」こそが「日本の精神性」「日本の美しい自然、豊かな文化、伝統」であると言っているのです。そして、国家神道の下の日本国民の姿こそ、彼にとってはあるべき日本の日本人の姿であって、「取り戻したい日本の姿」という事なのです。その国家神道を復活させるのための戦術の一つとしてこの「伊勢志摩サミット」を利用しようとしているという事です。
 これは憲法違反に当たります。また、この事が実行されていけば、「政教分離の原則」はなし崩しになり、また、国民主権や民主主義、基本的人権の尊重、平和主義、そして日本国憲法そのものも葬り去られ、政教一致で国民を奴隷扱いした天皇を元首とする大日本帝国が復活する事になります。伊勢神宮の「遷宮」儀式は戦前の国体の根幹を示す儀式で、遷御の日は祝日となり、全学校で奉賀式を実施した。安倍はすでに2013年の「遷宮」儀式で、戦前と同じように首相として参列(新宮へ向かう列にも加わった)しており、国家儀礼化をめざして既成事実を積み上げています。この時点でメディアも国民も安倍を憲法違反として追及すべきであったのですが、していません。今回も安倍ワールドがやりたい放題をやっても目をつぶってしまうのだろうか?安倍ワールドは退路を断って政治生命をかけて「大日本帝国への回帰」という目標を実現するために国民に対し戦いを挑んでいる。自民党の『憲法改正草案』では、第20条「信教の自由」の3に「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。」とあり、靖国神社を含めて「天皇・首相閣僚などの公式参拝」を可能とする道を開いている

(2015年6月18日投稿)


安倍首相は日本をどんな国にしたいのか!

2015-06-12 23:40:06 | 安倍政治

 安倍首相のお父さんは安倍晋太郎、お祖父さんは岸信介です。岸信介を育てたのは吉田茂です。


 吉田茂は近代日本の歴史の中で、明治以来の日本が歩んだ道にはまったく誤りはなかったと信じていた。ただ、満州事変からアジア太平洋戦争の敗戦までに限り、日本軍部によって変調をきたしたと考えていた。だから、占領下日本を、新しい民主主義の国としての「新生日本」ととらえず、「再生日本」という視点で国づくりをすべきだと考えていた。そして、満州事変以前の日本に戻して、それを土台にし、満州事変から敗戦までの期間を手直して日本を再建する、つまり、軍事主導体制を天皇制下の政治主導体制に戻す事に力点があった。日本国憲法については改正論者であり、岸信介に対して「今の憲法は気に食わないけれど、日本の国体(天皇制)を維持するためにはあれを呑むよりほかなかった、君らはそれを研究して改正しなければいけない」(『岸信介の回想』)と言ったという。
 岸信介は、「アジア・太平洋戦争」を「自存自衛の戦争である」とし、「侵略戦争と言う事は絶対に許してはならない」(『断相録』)と考えた。そして、A級戦犯容疑者であった彼は、東京裁判について「事実を曲げた一方的偏見に終始するとともに、量刑も極めてずさんで乱暴極まるもの」(『日記』)と反発した。占領政策についても「日本を弱体化させ再起不能とする事が狙いであった」(『岸信介証言録』)と評した。
彼は強力な憲法改正・再軍備論者として行動した。「戦前の大日本帝国の栄光を取り戻す事」を政治目標とし、対米従属関係を一切払拭して、「自由独立」体制を確立するという政策目標を掲げていた。日本国憲法については「占領軍の最高司令官マッカーサーから押し付けられたものであり、民族的自信と独立の気魄を取り戻すためには我々の手によって作られた憲法を持たねばならない」と考えていた。そして、「真の独立」とは「権利として自衛軍を整え、我々の手で祖国を防衛するという事で、米国の軍隊を国内に駐屯させてその力によって独立を維持する事ではない」とした。
 安倍首相は、吉田茂から引き継いだ岸信介の意志をさらに受け継いで実現させる事を、自分の使命としていると考えられる。その内容はすでに、自民党の憲法改正案にすべて示されている。その目指すところは、戦前の天皇制国家の再建である。
ついでに、吉田茂は、国民の事を「臣民」=「(天皇の)家来」という目で見ていたし、大衆を蔑視していた。そんな大衆には強圧的に対応する事が必要だと考えていた。いま、国民はどんな幸福を求めているのかな?国民は国民主権や基本的人権や民主主義を捨てるのか?自由や平等を捨てるのか?今年はその分岐点となる。
(2015年6月12日投稿)


これは愚民政策だ!!「国立大学の人文社会系の廃止や転換」通知

2015-06-12 00:12:54 | 教育

 安倍政権の文部科学省が6月8日、国立大学に文学部や社会学部など人文社会科学系の学部と大学院について、廃止や分野の転換の検討を求める通知を出した。特に教員養成系や人文社会科学系の学部・大学院は、組織の廃止や社会的要請の高い分野に転換する事を求めた。その理由について、自然科学系の研究は国益に直接つながる技術革新や産業振興に寄与しているが、人文社会科学系は成果が見えにくい、社会のニーズに応じた人材が育てられていない、との事。国立大学には「見返り」の大きいニーズのある分野に力を入れさせ、そこに補助金を集中させる考えだ、といわれる。(そのような補助金の出し方にも問題があるが、ここではそれに触れない。)
 さて、通知の内容は上記のようであるが、本当の目的はその事ではなく、国民に隠しているが別の目的があると考えた方が良いと思う。それは他でもなく安倍政権による「愚民政策」の一環であると考えるべきです。「愚民政策」とは、「人民の関心を政治に向けさせないために、人民が好み、熱中する事柄を提供し、意図的に人民を愚民化させる、という政策の事」。つまり、安倍政権にとっては、国民が色々な事を学んで知性や的確な判断力を養う事は非常に都合が悪いという事なのです。ところが人文社会科学系のめざす目的がまさしくそういう能力を身につけてもらう事にあるためにその存在が邪魔なのです。
 しかし、人間にとって生きるという事は学ぶ事です。学ぶ事それも真実を学ぶ事が幸せに生きる事につながるのです。国や人間や社会の在り方を学び考える事は、幸せに生きるためには何事にもかえがたい大切なものなのです。
 それゆえに、その機会を主権者である国民から奪おうとしているのです。この政策は江戸時代はもとより敗戦までの日本の為政者の統治姿勢であった「よらしむべし、知らしむべからず」と同じです。
 安倍政権は、ナチス・ドイツの手法を好んで使っているが、この「国立大学の学部見直し」通知の意図するものと通じる政策がある。ヒトラーは1942年に、「東方植民地政策」について述べているが、「被征服民族に対して学校教育を強制してはいけない。……彼らが読み書きできる事は、我々の害になるばかりだ。読み書きができると、頭の良い者が歴史的知識を獲得し、政治的思考を我が物にして、ついにはドイツに反逆する恐れがあるからだ。したがって、彼らに教育を与えるよりも、ラジオ拡声器を各村落に備えてニュースを流したり、娯楽を提供したりした方が良い。……ラジオではむしろ音楽だけを放送すべきであり、軽快な音楽によって労働意欲を増進させるべきである。……」というものです。
 さて、この政策は安倍政権の傲慢さをあらわしており、主権者である国民を馬鹿にした政策であると思う。また、人文社会科学系の教員の職場を奪い彼らの社会的影響力を封じる事を目的とするだけでなく、それによって、人文社会科学系の研究成果を学び生きる力を養う機会を若者たちや国民から奪う事を目的としている。それは安倍政権が、主権者である国民にとって、人文社会科学系の研究成果から得られる知性こそ最も大切なものであり、すべての分野のベースとなるものであると認識しているからです。
 また、この「通知」には戦時中の「学徒出陣」政策と根っこを同じくする意識がうかがえる。当時の「東条英機」政府は1943年10月2日に「臨時特例」を公布し、学徒(学生・生徒)の徴兵を猶予していた措置を停止し、同年10月21日に神宮外苑で「出陣学徒壮行会」を開催し、同年10月25日から11月5日までの間に、「1943年度の臨時徴兵検査」を出陣学徒の本籍地で実施し、同年11月15日には陸海軍別の入営団を本人に通知した。その時に入営延期措置を受けた教育機関が、「大学」では文理科大学、医科大学、工業大学、「学部」では工学部、理学部、理工学部、医学部、農学部(農学科、農業経済学科、農業生物学科、農林経済学科、農林生物学科を除く)となっていた。自然科学(理工)系こそが価値ある学問とされ、人文系は無価値なものとして扱われたのです。今日、この考え方が間違っているという事は常識となっている。安倍政権は、今やこの国や国民を私物化し、自分たちの政権の維持だけを考えている。政権の末期症状ともいえる。

(2015年6月12日投稿)


侮ってはいけない!ヘイトスピーチをする排外主義運動

2015-06-09 23:44:25 | ヘイトスピーチ

 大阪市長・橋下徹が「大阪都構想」の「住民投票」で反対派に敗れた後の記者会見で、「僕みたいな政治家はワンポイントリリーフ。権力者は使い捨てがいい」と語ったようだが、彼も排外主義者でヘイトスピーチを常套手段とする人間であった。
 「排外主義」とは、一般的には「国家は国民のものであり、外国に出自をもつ集団は、国民国家の脅威であるとするイデオロギー」を意味する。しかし、日本の排外主義運動の標的とする「外国」とは一般的な意味での「すべての外国」をさすのではなく、特に中国、韓国、朝鮮民主主義人民共和国の3カ国をさしている。
 排外主義運動に参加している人間は、ヘイトスピーチをする事によって、自分たちが社会で注目され、問題化されることを望んでいる。彼らはどんな人間たちなのか?排外主義運動のデモや集会の参加者の職業は非正規労働者や失業者やフリーターなど経済的に不安定な人間が多いといわれていたが、そうとばかりは言えないようで、正規労働者から定年退職者やシルバー人材センターの人まで多種多様のようだ。学歴は中学卒から大学院卒まで幅広く、他の運動とあまり変わらない。年齢層も幅が広く、30代、40代の男女が中心であるが、最近は高齢者が増加しているようだ。
 ヘイトスピーチとは「憎悪表現」という意味であるが、彼らは、ヘイトスピーチをしているとは思っていないようである。彼らは、彼らの対抗勢力も自分たちに対してヘイトスピーチをしていると思っており、自分たちだけをヘイトスピーチと言うなと思っている。彼らは、運動の普及拡大のために、これまでの右派や保守の運動には幅がないという事で、左翼の運動を研究分析し、それを真似て幅広い運動を繰り広げている。また、幅広いネットワークを全国に築いて運動をしている
 彼らはまた、きちんとした強い信念と運動論と運動戦略をもってヘイトスピーチをしている。それは、パフォーマンスであり、意識的に過剰にやっている。目立つためにやっているのである。彼らは、過激な発言やヘイトスピーチについて何とも思っていないし、誰もが言っている当たり前の事を言っても仕方がない、違う事を言う事に意味があると思っている。そして、安倍ワールドや他の政治家が言ったらたたかれる恐れのある事を彼らが言えば、結果的に安倍ワールドや他の政治家の方がまともに見えるとか、彼らの方がより過激に言うから、安倍ワールドや他の政治家の発言がおとなしく見えるという効果を狙っている。安倍ワールドや他の政治家の言っている事は大して酷い事を言っていない、むしろ穏やかでまともな事を言っているように見える効果を狙っている、そして、彼らは安倍ワールドの捨て石になっても構わない、彼らは自分たちの役割を自覚し、それを果たせればそれだけで良いと思っているのである。

(2015年6月9日投稿)