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金石範著「済州島四・三武装蜂起について」その③

2024-06-11 11:50:43 | 朝鮮問題

 済州島の弾圧で特徴的なのは、西北青年団(北朝鮮から南へ逃れてきた者たちの中で組織された李承晩親衛隊的存在の反共テロ団)が、その先鋒になっている事である。済州島に入った彼らの数は数百とも2千名ともいわれる。済州島は日本における沖縄のように本土の人間から蔑視されてきたという事もあるが、そのせいもあって島民は一般的に政治的には革命的な傾向を強く帯びている。しかも弾圧が強まるにつれて済州島民は島の行政機関の上部から外され本土出身者西北青年団たちによって占められた。支配者、帝国主義者は常に差別構造を利用して民衆の対立分裂を画策するが、済州島ではさらに島民をアカ呼ばわりするイデオロギーの問題を差別感情に結びつけて朝鮮人同士で闘わせ、弾圧に拍車をかけた。

 48年四・三蜂起以前から、済州島では虐殺事件が起こっており、婦女子に対する種々の暴行が頻発している。朝鮮人を蔑視する米国に、同じ朝鮮人である「西北」の連中がまねて、済州島民はアカだから人間ではない、人間でない奴は殺されてしかるべしという論理のもとで、非道な事を続けた。すでに47年夏には済州島だけではなく、全南朝鮮で数千名の検挙が行われ、南朝鮮労働党も非合法に追い込まれる事態が起こっている。そして、米国政府の南だけの単独選挙による分断政策が明るみに出てきた時期に、全民族的な統一と独立への闘いが一層強くなるが、済州島の場合は、李承晩の手先である西北青年団に対する抵抗防衛という生活上の問題を合せて含みながら、本土との連携のもとでゲリラ闘争の準備が極秘裏に行われていた。

 4月3日午前2時、その全島の側火山と主峰のハルラ山から一斉に闘いの烽火が上がった。そしてゲリラ隊は「単独選挙、単独政府反対、米軍は撤退せよ、朝鮮統一万歳」などのスローガンをかかげて米国政府李承晩の軍隊に戦いを布告した。これが南朝鮮におけるゲリラ闘争の始まりである。済州島は当時20数万の人口であったが、島なので縁故や親戚関係が多く、横のつながりが強くて当初はほとんどがゲリラ側だった。昼は米軍の支配、夜はゲリラの支配であった。主な武器は日本軍が米軍に武装解除される前に、ハルラ山に埋めたりした歩兵銃であった。それに竹槍などで武装した人々が数百人ハルラ山に立てこもっったが、その勢いは次第に大きくなって行く。米軍政庁などのある市内の心臓部には攻撃を仕掛ける事ができなかったけれど、投票放棄の宣伝活動も活発に行われ、各所の投票所警察などが襲われて、済州島における5・10単独選挙の強行は完全に失敗に終わる。この勝利は済州島だけにとどまったが、しかしやがて南朝鮮の山岳地帯を根拠地にしたゲリラ闘争へと拡大して行き、それは米国政府の軍事統治を根底から揺るがす力になる。米国政府は南朝鮮全域における革命的な戦いの根を断つために、まずゲリラ闘争の震源地である済州島を抑圧する必要があった。その結果がベトナム虐殺の原型ともいえる「第2次大戦後最初の虐殺」となった。

 こうして孤島での孤立した状態での戦いは壊滅するようになる。ゲリラが完全に無くなるまで約8年かかるが、しかし大体1年で大勢が決まり、49年の後半に入ると決定的な壊滅の時期に入る。ほとんど1年足らずの間に8万人近い人間が死んで行った。済州島民で、それは日本に住んでいる済州島出身者の間でも同じであるが、その家族あるいは親戚のだれかで死んでいない人はいないといえる。1948年8月15日、李承晩を大統領にすえてでっち上げられた「大韓民国」というものは、このような人民の犠牲の上にでき上ったものであった。

(2024年6月11日投稿)

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