ハインツ・ヘーネ著『ヒトラー独裁への道 ワイマール共和国崩壊まで』に基づいて、上記のテーマについて紹介しよう。
ナチ党は、1932年7月の選挙で初めて「第一党」となった。その後、1933年 1月30日、ヒトラーは首相に就任した。ここでヒトラーは、これまでのような連立工作の道をとらず、国会を即刻解散し、1933年3月5日の総選挙を公示した。その目的は、選挙戦を通じて大衆のナチ・フィーバーと闘争本能に火をつけて、ナチ党の一党勝利を実現するとともに、国内を意のままにできる独裁制へ移行する事であった。ヒトラーは選挙民が投票箱に一票を投じる前に、民主主義と法治国家を破壊するためにはあらゆる手段を用い、剝き出しの街頭デモで政敵を妨害し、打倒しようと断固決意していた。
ナチ党突撃隊(SA)の特別攻撃班は、第2党の社会民主党の選挙集会を組織的に撹乱し、ヒトラー内閣から「補助警官」の肩書を与えられた突撃隊員が遊説中の社会民主党幹部を街頭で公然と襲撃した。また、社会民主党の選挙集会に警官を臨席させ、演説者の一語一句に目を光らせ、「反国家的演説」と見做した時は即座に干渉した。社会民主党はこうした集会妨害を避けるため、多くの集会会場を非公開にせざるを得なかった。
プロイセンでは、社会民主党系のある新聞を、国家の安全を脅かす憲法違反の意見を発表したとして、官憲が発行停止処分にした。国会議事堂放火事件(選挙戦中の1933年2月27日夜、放火により炎上。ゲーリンクが犯人としてオランダ人ルッペを逮捕するとともに、野党勢力弾圧に乗り出した。)が起こるとその罪を共産主義者になすりつけ、ヒトラーは国民の基本的人権を蹂躙する口実とした。このようなテロと恐怖の雰囲気に包まれた中で、3月5日の投票日を迎え、社会民主党は1議席減、共産党は19議席減、ナチ党は単独過半数には達しなかったが92議席増で勝利した。他党も改選前の勢力を維持した。
しかし、ワイマール共和国は、1933年3月23日、運命の日を迎えた。この日、国会は炎上した議事堂からクロール・オペラ劇場に会場を移して開かれた。議題は、ヒトラーが自らその内閣のために4年間の独裁的全権を要求する全権委任法(正式名は「国民及び国家の危難を除去するための法律」。政府は独自に法律を制定でき、しかもその法律は憲法に背反する事も許される事などを規定)の審議、採決である。
社会民主党を取り巻く状況は絶望的だった。党本部と地方組織を結ぶ連絡網はほとんど断ち切られ、離党届が各地から洪水のように押し寄せ、度重なる党機関紙の発行禁止で党は沈黙を余儀なくされた。しかも党の頭脳ともいうべき人物を何人も失っていた。クロール・オペラ劇場の周辺は突撃隊員によって固められ、狂信的なシュプレヒコールで反ヒトラーの社会民主党議員らに脅しをかけていた。
それにもかかわらず、登院した社会民主党党首ウェルスはヒトラーと対決する演説の火ぶたを切った。「政府は社会民主主義者を無防備にする事はできるかも知れないが、不名誉な立場に貶める事はできない」と宣言し、「今日の歴史的な時に当たって、我々社会民主主義者はヒューマニズムと正義、自由、社会主義の理念を信奉している事を高らかに表明する。いかなる全権委任法といえども、永遠にして不滅の理念を破壊するような権限を諸君に与えはしないだろう」と述べた。
これを聞いて、ヒトラーは憤激のあまり、我を忘れて自席から跳び上がり、わめき出した。「諸君たちはもうご用済みなんだ。……ナチス・ドイツの星は今まさに昇りつつあるが、諸君の星はすでに没した。諸君の時代はもう終わったんだ」と。
これに対して社会民主党の対応は、党首ウェルスや党首脳は相次いで出国した。この一連の動きは社会民主党側のナチ順応化の始まりであった。各州議会や市議会では「ドイツ=社会主義グループ」なる勢力や労働組合総同盟までが党から次々と離れていった。党の各州議員団は全権委任法に対して拒否の態度はとったものの、ナチのご機嫌をそこねまいとして、まるで言い訳としか聞こえないような融和的な声明を発表した。
とどめを刺したのは、社会民主党の活動禁止(1933年6月22日、ヒトラーは大統領緊急令で社会民主党を非合法化)の直前、社会民主党国会議員団がヒトラーの外交政策に賛成票を投じた事であった。この時点ではドイツ社会民主主義には最早社会を動かす力はなく、バラバラに解体された死骸に過ぎなかった。社会主義の理念はとうに崩壊し、ナチに降伏していたのである。このようにして社会民主党は死んだのである。
世界最強の労働者運動の一つであったワイマール共和国の社会主義政党や近代的民主主義が、ナチズム(国家社会主義)によりなぜ無抵抗状態でもろく崩壊したのか?
それは、人間が犯しがちな誤謬と、一つの社会がもつ欠陥が異常発達した歴史であり、いくつもの偶然が重なり、自壊作用が進んだ歴史である。換言すれば、それは民主主義者なき民主主義の歴史であり、国民の誰一人望まなかったのに出現した議会制度国家の歴史であった。さらに、当時の若者たちの政治離れ、社会階層間の非妥協性、各政党の硬直化などであった。
ワイマール共和国の民主主義は、1918年の軍事的敗北という暗い影の中で、労せずして懐の中に転がり込んできたものである。誰一人としてこの民主主義を待望していたわけではないし、信奉している者もほとんどいなかった。確かに民主主義的革命らしきものが起きたのだが、帝政時代の社会構造はそっくり温存され、帝政下では解決できなかった様々な難問がそのままワイマール共和国に引き継がれ、事態は敗戦という重荷で一層悪化した。
1930年頃には、国民の意識の底流に、議会制度や民主主義は早晩、破産するだろう、政党によっては何も改善、改革できないだろうという雰囲気が忍び込み始めていた。そして、指導者崇拝熱に引き付けられていった。しかし、それがファシズムの理念に知らずして追随している事に気が付いていなかった。ワイマール民主主義が学ぶべきところの多い人物として注目していたのが、独裁者と指導者の顔を巧妙に使い分けるイタリアのムッソリーニであった。
(2022年10月6日投稿)