つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

朝日新聞写真館「運動会」、戦前の目的も説明を!

2022-10-23 22:59:04 | 日本人

 先日は「運動会」の写真を紹介していた。しかし、薄っぺらな説明で写真の資料価値が生かされていないため、紙面の無駄遣いになってしまっているように思う。

 神聖天皇主権大日本帝国では、「運動会」とは、大日本帝国政府により、教育勅語拝戴式三大節(四方拝、紀元節、天長節の総称)の儀式とともに、学校の児童生徒だけでなく、父母地域大人を巻き込んだ教育活動として実施させたもので、教育方針を示す「教育勅語」下の学校教育に関係させ、「皇民化教育」の影響を及ぼし、「忠君愛国」の思想を全国民に定着させる事を目的としていた事を伝えるとともに、国民主権を原則とする戦後憲法下の今日、「運動会」を含む学校教育の在り方の教訓とし、現状の再点検をするきっかけにしてもらえるように配慮すべきだったのではないだろうか。

(2022年10月23日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電力3社会長の頭は原発での金儲けで思考停止:公益事業の自覚と責任意識なく世界の動向も読めない

2022-10-23 10:53:50 | 原発

 2019年10月11日に、北陸、中国、四国の3電力会長が朝日新聞の取材に応じた。彼らに共通する事は、これから先も何があっても原子力発電を続けようとする強い意志で思考停止している事である。その意志に疑問を持ったり変えようとする気がないだけでなく、これまでも地域貢献してきたと自負し、今後もさらに推し進めようとしている事である。その理由は、彼らなりに実しやかな理屈を述べるが、つまるところ、彼らにとっては原子力による発電こそが効率的に金儲けをする方法に他ならないからである。そして、そこには電力会社が公益事業であるという自覚や原子力による発電が国民の生命や健康、生活、人生を危険にさらすという事についての責任意識は毛頭持ち合わせず、さらに、発電方法について、世界が進めている自然エネルギーの利用の動向に先んじようとする意識もまったく見られない。

北陸電力久和進会長「資源の乏しい日本では原子力は放棄できない。国民の理解を得て、重要なエネルギー源として活用していきたい」と協調。

中国電力苅田知英会長「国の原子力政策への影響がどの程度出てくるのか、少し心配している」「発電所が立地する自治体には、雇用面などで地域振興や経済活性化の効果がある。今後も説明していくしかない」と述べた。

四国電力佐伯勇人会長「『他山の石』にしていきたい。疑いがもたれないような行動に努める」と述べた。

 主権者国民は、原子力発電は新たな公害の発生源であると認識し、その公害発生の解消に責任を取れない企業にはその事業の継続を認めないとする、そのような政治を行う政党に政治を担わせなければならない。

 政治は日常生活そのものである。その日常生活での悩み事や困りごとをなくし少しでも生活しやすくしようとするための意識であり活動である。政治がわからないとか、政治に関心がないとか、政治は自分に関係ないとか、思っている人は、自分の事を、また自分の生活と命をきちんと見つめていないのであり、大切にしようと思っていない人である。

(2019年10月18日投稿)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍首相の靖国参拝:憲法判断しない最高裁は職責放棄で国民主権に背いており裁判官の資格を有していない

2022-10-17 18:41:54 | 宗教

 2013年12月に行った安倍首相の靖国神社参拝に関して、神社に祀られている戦没者の遺族らが、憲法に定めている「政教分離の原則」に反しているとして、安倍首相と国、神社を訴えた上告審(最高裁第二小法廷・山本庸幸裁判長)が20日付で決定した。

 安倍首相が「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳し、私費で献花料を納めたのに対して、原告らは「戦没者をどう祭祀するかを自ら決める権利を侵害された」と主張し、また、「集団的自衛権の行使容認などが進行する中での参拝は戦争の準備行為にあたり、平和的生存権を侵害する」として今後の差し止めも求めていたが、一、二審判決と同様に「政教分離原則」について判断を示さなかった

 政教分離原則についての判断こそが、国民が最も関心を持っている事であり、最高裁は憲法違反か否かを判断すべき職責を有しているはずである。にもかかわらずそれを果たしていないという事である。つまり、裁判官は、それも最高裁裁判官は憲法に基づいて判断を示す事こそ職務である、にもかかわらずその職務を果たしていないのである。このような職務状況であれば、裁判官としての資格を有しているとはいえないではないか。国民にとってこのような裁判官はその存在価値を感じないだけでなく、安倍政権を正当化し利するだけで国民の権利を侵害する事を目的とするものでしかなく国民生活に有害である。

 しかし、なぜこのように「判断をしない」という姿勢をとるのかを考えてみよう。その答えは、「憲法違反」と判断を示す事は、かつての(今も社会の裏側で生き続けているが)明治天皇が設立した「靖国神社」(国家神道)を否定する事につながるからである。そして、その事は現在の「天皇制」の存立を否定する事にもつながるからなのである。だから、靖国参拝問題は安倍自民党政権の意思を組む裁判官にとっては、憲法の定める政教分離原則に則り論理的に答えを出す事ではなく、「答えありき」の問題なのである。これが日本の国民主権(天皇制民主主義)の実態だという事である。

(2017年12月31日投稿)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワイマール共和国の若者たちの指導者崇拝熱はどこへ向かったのか?

2022-10-09 18:17:46 | ワイマール共和国

 ハインツ・ヘーネ著『ヒトラー独裁への道 ワイマール共和国崩壊まで』を基にして上記について紹介しよう。今日、自公政権、特に安倍氏以降の自公政権の下で、日本の若者たちの政治的動向を観察するために参考となるかもしれない。

 ワイマール共和国の大勢の民主主義者は、指導者崇拝熱に惹きつけられていたが、イタリアファシスト党統領であったムッソリーニのエネルギーは、模範的なものに映った。ムッソリーニのような素質があるか否かが、ワイマール共和国の政治家の適性を占う物差しとなった。ドイツのムッソリーニになる事は政治家にとって、やり甲斐のある目標となった。ヒトラーはすでに1922年から自らを「ドイツのムソリーニ」として宣伝していた。

 指導者崇拝熱は、それまで民主主義派の各政党や政治家たちの古くさい政治スタイルにそっぽを向いていた若者たちも虜にした。「指導者原理」こそ、若い世代が何年間も待ち焦がれていたキーワードだったのである。若者たちは、経験豊かな指導者と、仲間意識で固く結ばれた共同体を、どの社会階層よりも切実に待望していたのだが、ワイマールの制度、組織はそのいずれも満足させてくれなかった。若い世代の圧倒的多数はワイマール体制をすでに見限っており、「老人と中年たちの共和国」には何らの帰属意識も持っていなかった。

 では、若者たちは民主主義諸政党を見限ってどこへ向かったのだろう。上記の状況が、1920年代初めの混乱期の置き土産である各党の準軍事的自衛組織に新しい生命を吹き込む事になる。例えば国粋主義の鉄兜団、あるいは国家社会主義の突撃隊(SA)、共産党の赤旗戦闘団、民主主義擁護を叫んで黒・赤・金三色のワイマール国旗を掲げる社会民主党系の国旗団といった組織である。これらの団体は、最も有効な政治参加の道を求めている若者たちの心を惹きつけようとして、それぞれのやり口で、民主主義に挑戦的な非知性主義と幼稚な軍国主義を、政治の場におおっぴらに持ち込んだ。彼らは、準軍事団体につきものの暴力に慣れ親しみ、国内対立を益々険悪なものにするのに力を貸した。

(2022年10月8日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワイマール共和国1933年3月5日の選挙戦で独裁体制を狙うナチ党

2022-10-07 09:53:15 | ワイマール共和国

 ハインツ・ヘーネ著『ヒトラー独裁への道 ワイマール共和国崩壊まで』に基づいて、上記のテーマについて紹介しよう。 

 ナチ党は、1932年7月の選挙で初めて「第一党」となった。その後、1933年 1月30日、ヒトラーは首相に就任した。ここでヒトラーは、これまでのような連立工作の道をとらず、国会を即刻解散し、1933年3月5日の総選挙を公示した。その目的は、選挙戦を通じて大衆のナチ・フィーバーと闘争本能に火をつけて、ナチ党の一党勝利を実現するとともに、国内を意のままにできる独裁制へ移行する事であった。ヒトラーは選挙民が投票箱に一票を投じる前に、民主主義と法治国家を破壊するためにはあらゆる手段を用い、剝き出しの街頭デモで政敵を妨害し、打倒しようと断固決意していた。

 ナチ党突撃隊(SA)の特別攻撃班は、第2党の社会民主党の選挙集会を組織的に撹乱し、ヒトラー内閣から「補助警官」の肩書を与えられた突撃隊員が遊説中の社会民主党幹部を街頭で公然と襲撃した。また、社会民主党の選挙集会に警官を臨席させ、演説者の一語一句に目を光らせ、「反国家的演説」と見做した時は即座に干渉した。社会民主党はこうした集会妨害を避けるため、多くの集会会場を非公開にせざるを得なかった。

 プロイセンでは、社会民主党系のある新聞を、国家の安全を脅かす憲法違反の意見を発表したとして、官憲が発行停止処分にした。国会議事堂放火事件(選挙戦中の1933年2月27日夜、放火により炎上。ゲーリンクが犯人としてオランダ人ルッペを逮捕するとともに、野党勢力弾圧に乗り出した。)が起こるとその罪を共産主義者になすりつけ、ヒトラーは国民の基本的人権を蹂躙する口実とした。このようなテロと恐怖の雰囲気に包まれた中で、3月5日の投票日を迎え、社会民主党は1議席減、共産党は19議席減、ナチ党は単独過半数には達しなかったが92議席増で勝利した。他党も改選前の勢力を維持した。

 しかし、ワイマール共和国は、1933年3月23日、運命の日を迎えた。この日、国会は炎上した議事堂からクロール・オペラ劇場に会場を移して開かれた。議題は、ヒトラーが自らその内閣のために4年間の独裁的全権を要求する全権委任法(正式名は「国民及び国家の危難を除去するための法律」。政府は独自に法律を制定でき、しかもその法律は憲法に背反する事も許される事などを規定)の審議、採決である。

 社会民主党を取り巻く状況は絶望的だった。党本部と地方組織を結ぶ連絡網はほとんど断ち切られ、離党届が各地から洪水のように押し寄せ、度重なる党機関紙の発行禁止で党は沈黙を余儀なくされた。しかも党の頭脳ともいうべき人物を何人も失っていた。クロール・オペラ劇場の周辺は突撃隊員によって固められ、狂信的なシュプレヒコールで反ヒトラーの社会民主党議員らに脅しをかけていた。

 それにもかかわらず、登院した社会民主党党首ウェルスはヒトラーと対決する演説の火ぶたを切った。「政府は社会民主主義者を無防備にする事はできるかも知れないが、不名誉な立場に貶める事はできない」と宣言し、「今日の歴史的な時に当たって、我々社会民主主義者はヒューマニズムと正義、自由、社会主義の理念を信奉している事を高らかに表明する。いかなる全権委任法といえども、永遠にして不滅の理念を破壊するような権限を諸君に与えはしないだろう」と述べた。

 これを聞いて、ヒトラーは憤激のあまり、我を忘れて自席から跳び上がり、わめき出した。「諸君たちはもうご用済みなんだ。……ナチス・ドイツの星は今まさに昇りつつあるが、諸君の星はすでに没した。諸君の時代はもう終わったんだ」と。

 これに対して社会民主党の対応は、党首ウェルスや党首脳は相次いで出国した。この一連の動きは社会民主党側のナチ順応化の始まりであった。各州議会や市議会では「ドイツ=社会主義グループ」なる勢力や労働組合総同盟までが党から次々と離れていった。党の各州議員団は全権委任法に対して拒否の態度はとったものの、ナチのご機嫌をそこねまいとして、まるで言い訳としか聞こえないような融和的な声明を発表した。

 とどめを刺したのは、社会民主党の活動禁止(1933年6月22日、ヒトラーは大統領緊急令で社会民主党を非合法化)の直前、社会民主党国会議員団がヒトラーの外交政策に賛成票を投じた事であった。この時点ではドイツ社会民主主義には最早社会を動かす力はなく、バラバラに解体された死骸に過ぎなかった。社会主義の理念はとうに崩壊し、ナチに降伏していたのである。このようにして社会民主党は死んだのである。

 世界最強の労働者運動の一つであったワイマール共和国の社会主義政党や近代的民主主義が、ナチズム(国家社会主義)によりなぜ無抵抗状態でもろく崩壊したのか?

 それは、人間が犯しがちな誤謬と、一つの社会がもつ欠陥が異常発達した歴史であり、いくつもの偶然が重なり、自壊作用が進んだ歴史である。換言すれば、それは民主主義者なき民主主義の歴史であり、国民の誰一人望まなかったのに出現した議会制度国家の歴史であった。さらに、当時の若者たちの政治離れ、社会階層間の非妥協性、各政党の硬直化などであった。

 ワイマール共和国の民主主義は、1918年の軍事的敗北という暗い影の中で、労せずして懐の中に転がり込んできたものである。誰一人としてこの民主主義を待望していたわけではないし、信奉している者もほとんどいなかった。確かに民主主義的革命らしきものが起きたのだが、帝政時代の社会構造はそっくり温存され、帝政下では解決できなかった様々な難問がそのままワイマール共和国に引き継がれ、事態は敗戦という重荷で一層悪化した。

 1930年頃には、国民の意識の底流に、議会制度や民主主義は早晩、破産するだろう、政党によっては何も改善、改革できないだろうという雰囲気が忍び込み始めていた。そして、指導者崇拝熱に引き付けられていった。しかし、それがファシズムの理念に知らずして追随している事に気が付いていなかった。ワイマール民主主義が学ぶべきところの多い人物として注目していたのが、独裁者と指導者の顔を巧妙に使い分けるイタリアのムッソリーニであった。

(2022年10月6日投稿)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする