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朝日新聞「被爆国から2023香川剛広氏5月31日」に不信感

2024-07-24 23:10:34 | 核兵器

 広島平和記念資料館の「芳名録」に記した各国指導者の「言葉」について、香川剛広氏は、「核兵器のない世界を目指すという理想に向けた思い、ヒロシマの心が、指導者たちに確実に伝わったのではないか」としているが、指導者たちの「言葉」を安易に思い込みで断じてはならない。それはその「言葉」が「核軍縮に関する広島ビジョン」の内容と一致するものではないからである。「広島ビジョン」について香川氏自身は、「核兵器をはじめ各国とのギリギリの調整の中では文言交渉は難しかったのだろう」、と岸田首相自身の本当(核兵器禁止?)の「意志」を反映させるため努力したが十分にできなかったかのような主張をしているが、これまでの岸田自公政権の主張からみれば、国民からすればそれは誤った評価であると考えざるを得ない。加えて香川氏は、「外務省では(核兵器禁止条約を)署名、批准すれば、日米安保条約の義務に反するという解釈が基本だ」と、さも国民もその事を理解をすべきであると強いるように主張しているが、この主張は「平和文化センター」の役割と「理事長」の職責に照らして相応しくないのではないか。

 そして、ヒロシマの役割として、「市民レベルで海外との交流を通じて被爆の悲惨さを伝えていく事。そして平和のための地道な活動、協力を草の根レベル、市民レベルで広げていく事だ」と主張しているが、これは今日分かり切った「おざなり」の教科書的主張であり、これまでの反核運動や近年の核兵器禁止運動と何ら変わらぬ、誰もがすでに認識し実践してきている姿勢認識に過ぎない。

 そして結論のように、「独裁者に対抗するには、市民の声をもっともっと強くしないといけない。道が遠いようでもそれが王道」と主張するが、この「独裁者」とは誰の事を指すのかをなぜ明確にしないのか納得できない。なぜなら国民から見れば、独裁者は他国に存在するのではなく、日本の「自公政権」、現在では「岸田自公政権」であるといってもよいからである。岸田自公政権が、戦前の独裁者であった神聖天皇主権大日本帝国政府が起こした侵略戦争と同様の過ちを二度と繰り返させないために、その政治姿勢に対抗抑止する必要に迫られている状況にあるからである。市民国民は、「日本国憲法」の「前文」にある「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こる事のないようにする事を決意」すべき状況に陥っているからである。この事を理解できず「独裁者」を「明確」にしていないのであれば、「広島平和文化センター理事長」の資格はないだろう。

(2023年6月1日投稿)

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ハンセン病家族訴訟についての新聞などメディアの見出しは安倍首相美化の印象操作:「首相『異例』判断」や「人権侵害を考慮」など

2024-07-23 20:30:50 | ハンセン病

 新聞などメディアは、元ハンセン病患者の家族への熊本地裁判決について、安倍首相が2019年7月12日、談話で正式に「控訴しない」と発表した、と報じたが、その新聞などメディアが付けた記事の見出しの言葉にうかがえる考え方に対し、主権者国民の立場から放置できない極めて重大な問題を感じている。

 その見出しの言葉は、「首相『異例』判断」や「人権侵害を考慮」というものである。   

 熊本地裁判決は、厚生相(現厚労相)、法務相、文部相(現文科相)など政府の責任を広く認定し、賠償を命じた。それに対し、新聞などメディアの報道は、安倍自公政府としては、控訴して高裁の判断を仰ぐのが規定路線であり、また、別の患者家族が起こしている訴訟が最高裁で係争中であるため、熊本地裁判決を控訴せずに確定させる事は困難であるという考え方が大勢であったが、安倍首相が、「異例の事ではありますが、控訴しない事と致しました」と表明した談話の言葉をそのまま「見出し」に使い、新聞などメディア自らもその通りとして「異例」と認めた報道しているのである。そこには、安倍首相の談話を、かつて昭和天皇を美化した作り話である「聖断」(反対意見を抑えてポツダム宣言受諾を決定した)というものの「安倍版」のように印象づけようとする意識がうかがえるのである。そうであればそれは明らかに故意に事実でない解釈をして(メディアが無意識に上記のような解釈をするならばメディアを業とする資格はない)国民に対し首相を美化する印象操作をしていると考えるのが妥当であろう。日本国憲法下の政府では政策の最終決定は反対や異議を有する閣僚に首相が理解を求め最高権限を行使して行うのが当たり前だ。それを英雄であるかのように美化する必要はない。神聖天皇主権大日本帝国政府の首相じゃあるまいし、何も驚く事ではないはずだ。

 新聞などメディアは上記のような記事を書く手法ではなく、原告団長の林力さん(94)の「(控訴しないのは)当然の事だと思います。多くの方々、世論の支援があってここまで来た。無念の中で死んでいった多くの(ハンセン病療養所)入所者の人々も喜んでいる事だと思う」という言葉を、政府に侵害されている権利を保障させるために闘う主権者国民の運動を大きく取り上げる事こそ使命としなければならないのではないのか。また、談話には「人権侵害」という言葉は使用していないし、政府による「人権侵害」であるにもかかわらず、「差別が存在した」という加害者意識のない表現をしている。判決は、元患者の隔離(談話では「施設入所政策」と表現)という国策が、家族への偏見と差別という「社会構造」を作ったと断じ、就学や就労の拒否、村八分、結婚差別などの「人生被害」をもたらしたと指摘しているにもかかわらず、安倍首相(談話)は、「差別」(=人権侵害)が政府の政策が根本原因で生み出された事を認めていないのである。それにもかかわらず、新聞などメディアは安倍首相の考え方を糾す事なく、「人権侵害を考慮」という見出しを付けているのである。これは明らかに安倍首相を美化する印象操作をしていると考えざるを得ない。そして、新聞などメディアは安倍首相を幇助していると言わざるを得ない。これまでの政府を幇助してきたように。新聞などメディアは、自己の加害責任にほうかむりしてその謝罪もせずに、国民に対して説教を垂れる事は偽善と傲慢以外の何ものでもなく許されない。そして、責任の負い方は、その国策実施にどのような立場で関わってきたかなどの関わり方によってその軽重もそのあり方も異なるものである。東久邇宮内閣が、負うべき者の戦争責任を曖昧化しようとした「一億総ざんげ」のように、国民に責任を負わせようとしてはならない。

 安倍自公政府声明の内容は、「判決には従えない」と司法と原告や主権者国民に不平不満や文句を権力を悪用して「声明」というカッコつけた名称で言っているだけだ。すべてその責任を認めたくないための「屁理屈」であり、国民に責任転嫁しようとするものである。また、森首相もそのような発言をしたが、公然と司法権を罵倒した考え方であり態度である。政府声明は三権分立の司法への司法権への圧力をかける事を目的としたものであり、三権分立を形骸化させ行政権が牛耳ろうとするものである。新聞などメディアは、前代未聞のこのような態度価値観の安倍首相、安倍自公政権に対して、無視するぐらいの対応が必要である。記者が無視されるように。無視する事によって国民が不利益を被る場合には、政府の非常識や無法を糾すべきであろう。元福岡高裁部総括判事・森野俊彦弁護士が「控訴断念は本来、訴訟の基本的な争点を是認した事と同じだ。政府の対応は、法律論的には相当問題がある」と指摘しているように。

 菅官房長官は政府声明を「法的拘束力はないが、政府としての大変重い意志表明だ」と説明したが、古い意識に凝り固まっている体質が露わになった。自己の正当化と権力維持のため、自己に都合の良い価値観や意識をご都合主義で「正しい」ものとして持ち出し、国民に対してそれを押し付けようとするその姿勢を改めようとしない事がこの件においても露わになった。時を経るとともに、その時間が短い場合もあるが、人間の意識や社会の意識はより良いものに変化発展してゆくものである。安倍自公政権はそれを認めないという事を政府声明で露わにしたという事である。このような事例が他に多々ある事に思い当たるだろう。自民党員公明党員はもうすでに、価値観や意識は化石人類に属しているのである。彼らを権力の座から追い払わなければ国民の権利は保障されず真に幸せにはなれない。国民の進歩発展の国の進歩発展もない。

(2019年7月19日)

 

 

 

 

 

 

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トヨタのベア非公表:「政権への配慮か」ではなく「これまでの労働組合運動からの離脱、労働者の権利の放棄」を意味する。連合会長・神津里季生氏の発言姿勢は労働者の立場を代表していない

2024-07-22 21:18:09 | 労働組合

 トヨタ自動車労組は2019年1月28日、今春闘において、賃金の底上げ分に当たる「ベアの具体額を明示しない」と決めたようだ。労組委員長・西野勝義氏は「ベアだけに焦点が当たった交渉では格差は縮まらない」と経営側と同じ考え方をしている。しかし、マツダ系列労組幹部は「トヨタ労使のやり方では回答の中身がブラックボックスになる。本当に賃上げしたのかも検証できない」と批判している。また、大手電機メーカー組合員は「会社によって働き方は大きく変わらず、ベアという同じ目標に向かって闘うのが本来のあり方だ。個別に交渉すると労働側の力を削ぎ、全体の賃金の底上げにつながらない」と主張している。しかし労働者にとって大きな問題は、ベア率を方針の前面に打ち出してきた労働組合中央組織連合会長である神津里季生氏がそれを今年から見直しトヨタ労使と同様な考えに傾き、各労組が理想の月額賃金を提示して交渉(個別交渉)するよう勧めている事である。この姿勢は労働者に保障されている労働三権(団結権・団体交渉権・争議権)を含む労働者の権利を自ら放棄するもので、労働者としては「自殺」行為である。

※以下は昨年4月6日に投稿したものですが、改めて投稿します。神津里季生氏についても別に投稿していますので参考にしてください。

 2018年4月4日の新聞に、「トヨタ ベア非公表波紋」「春闘 回答不明で検証できず」「政権への配慮か」との見出し、小見出しの記事が載っていた。

 経営側の要請である「ベア非公表」に対し、労働組合側が「どのように対応したのか」という点に非常に関心をもったが、その際、一旦は「拒んだ」ようであるが、結果的には「受け入れた」という事である。

 この動きに対し新聞記事は、「政権への配慮か」という評価に終わっていたが、この問題はそれだけではない。新聞は労働組合運動におけるもっと重要な点を見落としている。それは、トヨタの労働組合が労働運動の基本原則である「団結」原則を打ち捨てたという事であり、それは「これまでの労働組合運動スタイルから離脱する道を選んだ」事である点である。経営側の思惑通りに労働組合運動が分断されたという事なのである。

(2022年2月12日投稿)

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「世界の国旗国歌コンサート」で国際理解深める?:オリンピック憲章に背反した独善的な国際理解を振り撒くな。安倍自公政府文科相都教委は五輪教育を直ちに止めよ!

2024-07-22 10:50:44 | スポーツ

 2019年7月17日の新聞に、来年夏に予定されている「東京五輪・パラリンピック」のために、国旗と国歌を通じて国際理解を深めようという目的で、前回1964年の東京五輪で国旗を担当したという吹浦忠正氏とソプラノ歌手である新藤昌子氏が「世界の国旗国歌コンサート」を開くために合唱団員を募集しているという記事が載っていた。

 しかし、両氏はその前にオリンピック憲章を正しく理解するべきである。憲章では1984年のオリンピックから、国旗・国歌の文字を使う事を止め、参加選手は各国のオリンピック委員会(NOC)の旗と歌を使用する事と決めているからである。それは、1980年にアメリカ政府がソ連のアフガニスタン侵略への抵抗や批判の意味を込めて、モスクワ五輪への参加を中止した事があったが、それをきっかけにIOC(国際オリンピック委員会)オリンピック憲章第1章オリンピック・ムーブメント6オリンピック競技大会1に定める「オリンピック競技大会は、個人の個人種目または団体種目でも選手間の競争であり、国家間の競技ではない」とするオリンピック本来の精神に立ち戻る事にしたためである。同憲章第4章国内オリンピック委員会(NOC)31.NOCの旗、エンブレム、讃歌に定める旗と歌は「NOCが……採用する旗・讃歌」と定めている。

 また、オリンピック憲章70.表彰式の規則70付属細則1-表彰式、にも、「優勝者の所属する選手団の旗がセントラル・ポールに掲揚され、……。優勝者の所属する選手団の歌(短縮したもの)が演奏される間は、メダル受賞者たちは旗の方向を向くものとする。」と定めている。 

 しかし、両氏はおそらく、この重要な決定を知らないのではなく知っていながら、このような規則を覚えている知っている人は少ないと見込を立て、上記のようなイベントを実施しようとしたのであろう。極めて狡猾である。

 また、彼らは「国旗と国歌を通じて国際理解を深めよう」と、「国際理解」について極めて独善的に簡単に深められるようにアピールしている。しかし、「国際理解」はそのような単純で簡単にできる事ではない。つまり、単に国旗を知りと国歌を歌う事だけで国際理解ができるものではない。国際理解は、あらゆる異文化(自分を取り巻くすべての人々の文化)を知り尊重し対等に接し、そこから学びながら共に生きるための知恵や能力を身につけ自分自身を変革する事であるから。

 彼らはおそらく、それを分かっていながら、故意に隠して、募集に応じた合唱団員に「国際理解」を深める事ができたと思わせる事とそのような中身のないカッコだけのコンサートイベントをする事が目的なのである。そして、「君が代」を合唱させる事を最重要の目的としているのであろう。

 主権者国民は、NOCが、いつ、どこで、誰が、NOCの旗と歌を決定したのかについて疑問を持ち明らかにしておくべきである。主権者国民がまったく知らないところで決定し、承認を得る手続きさえも経ず、現在も、1980年以前からの、旗としては「日の丸」、歌としては「君が代」を使用し続けている事の問題に気づくべきである。

 また、公益財団法人・日本オリンピック委員会のHPは、オリンピック憲章に関して、規則59付属細則までしか公表していない事も糾すべきである。

 さらにこの「旗と歌」に関連して、東京都の学校教育において、主権者都民保護者が看過できないもっと重大な問題が起きており、都教育委員会を提訴し訴訟中である事を紹介し、この問題が安倍自公政権と結託したいかに組織的で根深い企て(陰謀といっても良い)であり、国民の人権を抑圧し否定する恐ろしいものであるかを知ってもらいたい。

 都教委は2016年3月31日、2020年東京五輪に向け、自己の作成した「五輪読本」などを、税金約1億6400万円を使って都内の国公私立すべての小学校(4年生以上)・中学校・高等学校の児童生徒に配布し、年間35時間の五輪授業を強制義務化した。しかしそれは、五輪憲章について故意に自己に都合よく書き換えた「虚偽」の内容であり、都教委はそれを児童生徒に刷り込む事を目論んでいる事が明確である

 小学校用の65ページでは「表彰式の国旗けいようでは国歌が流されます。」としており、中学校用の89ページの表彰式の写真の説明では「中央に1位、向かって左側に2位、右側に3位の国旗が掲揚され、1位の国の国歌が演奏される。国歌が演奏されるときには、敬意を表し、起立して脱帽する。」と記載されているのであるが、上記が正しい内容なのである。

 東京都教委の行為は、オリンピック憲章に背反している事はもちろんであるが、憲法違反でもあり、子どもの権利条約にも反している。ただちに、五輪授業自体を止めるべきである。安倍自公政府・文科相の姿勢が元凶である。

(2019年7月20日投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

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明治150年記念福井国体、これも安倍政権の戦後レジーム(日本国憲法体制)からの脱却、国体は思想統一と皇国臣民化教育の場と化す

2024-07-22 10:34:52 | スポーツ

 2017年11月8日の朝日新聞記事によると、文科省や開催地の都道府県と国体を共同開催する日本体育協会の国体委員会が2017年8月25日、来年秋開催予定の福井国体の名称を「明治150年記念 第73回国民体育大会」とする事を正式決定したという。

 まず不信に思った事は朝日新聞に対してであるが、なぜ名称が正式決定されてから記事にしたのか、そして決定からこのように時間が経ってからなのかという点である。これはメディアの常套手段である悪質な情報操作による世論操作であると考えてよい。読者に考える機会と対処する時間を与えない事が狙いなのである。メディアの罪と責任は重く批判されるべきで、これからの姿勢を問わなければならない

 安倍政権は2018年に政府が行う行事には「明治150年記念」の冠をつける方針を表明している。それを受けてスポーツ庁は福井県に、7月上旬、1968年の福井国体が「明治百年記念」と冠していた事から、来年秋の福井国体でも「明治150年記念」を冠する事を、要請(強く請い求める事。庁側は、依頼をしたのであり最終的な結論は県に任せたとの言であるが、それは庁側に都合よく話をスリカエたのだろう)したようだ。

 日本体育協会の岩田史昭・国体推進部長は決定について、「福井県の提案を尊重した」(これも庁側に都合よく話をすり替えている)としているが、県労連や県高教組など7団体は県に反対を申し入れている。その理由は「明治は当初から対外膨張(侵略)的な志向を強く持った時代であり、それがアジア太平洋戦争の惨禍に結びついた」などとしている。

 また、8月23日開催の県の実行委員会でも上記団体と同様の趣旨の反対意見が出ていたにもかかわらず、「記念と銘打つ事で県民の意識が醸成される」とか「後々まで記憶に残りやすい」という賛成意見(その事の論理的な理由説明がなされていないにもかかわらず)に対し、拍手や異議なしの声が出て賛成多数で承認されたという。これではこの実行委員会は行政の会議としての体裁を為していないと考えてよい。

 つまり、実行委員会の決定は、日本国憲法の原理が大日本帝国憲法の原理を全面的に否定し改め成立したものである(現行の日本国は明治に成立した大日本帝国を否定して成立した)という理解に基づいたうえで議論がなされたものではないという事であり、また、その理解を故意に無視したものであるともいえるからである。

 また、県大会推進課の担当者は「(反対派が指摘するような)歴史的な意図はない」と説明しているが、これも県の実行委員会の賛成意見と同様に説得力のない観念的主観的な認識に基づいた説明をしているだけであり、県職員(公務員)に対し定めている憲法第99条「憲法尊重擁護の義務」に基づいた説明になっておらず、責任を追及すべきであると思う

 上記のような認識に基づけば、一橋大学の坂上康博教授の、「戦後〇〇周年」などとして戦後のシンボルとしての歴史の重みを示すべきだ、との提案こそ正当なものとして理解でき、それに沿った決定内容こそ納得できるものといえよう。

 この件は、安倍政権が、国民体育大会を故意に、それも公然と政治的に利用しようとしているものであり、憲法違反以外の何物でもない。これを許せば、近い将来、挙国一致尽忠報国の精神高揚を目的とし1940(昭和15)年に実施された「紀元二千六百年奉祝 第11回明治神宮国民大会」のような冠称をつける国体も登場してくる事になるであろう。そして、国体は公然と強制力を持って国民に対する思想統一と皇国臣民化教育の場と変貌する事になるであろう。

 ついでながら、その紙面に掲載された今年の「えひめ国体」の開会式の写真を見ると、「ナチス式敬礼」に模した敬礼が選手たちによって行われている(日本体育協会の要請で行わせたのであろう)事がわかる。 

 また、過去の他に問題視すべき名称としては、1979年に実施された宮崎県での「日本のふるさと 宮崎国体」というものもあった。宮崎県はなぜ「日本のふるさと」としたのでしょうか。その認識は記紀神話に基づいたものであり、ここでも日体協が要請したと思われるのである。

(2017年11月11日投稿)

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