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広瀬武夫中佐(日露戦争旅順港閉塞作戦)の銅像の戦後復元と公園占拠の不可解さ

2024-11-30 16:47:20 | 文学・歴史

 日露戦争では、旅順港閉塞作戦が実施された。その作戦には神聖天皇主権大日本帝国政府初の「軍神」とされた広瀬武夫少佐(戦死後、中佐に昇進)がいた。先日、40年ぶりに岐阜県高山市へ出かけた際、前回は知らなかったために訪れなかった城山公園へ、高山の町が展望できると知ったのでその景色を見たいと思い登ってみた。そして、天守閣跡への道の途中の広場で、思いがけない銅像を見つけた。それは日露戦争の旅順港閉塞作戦で「軍神」とされ、文部省唱歌『広瀬中佐』にもなった広瀬武夫の背の高い石の台座に載せられた銅製胸像であった。その時とっさに思った事は、高山市では現在でもいまだにこんな人物の銅像が場所を与えられて、きれいに整備され存在が認められ(讃えられ?)ているのかという不思議な驚きであった。

 広瀬中佐の銅像は明治期に3体建立されていた。➀1905年3月、岐阜県高山市の城山公園中佐平に胸像。➁1910年5月、東京旧万世橋駅前。③1912年5月、生誕地の大分県竹田市に立像、である。しかしアジア太平洋戦争中に金属供出により、高山市竹田市の像はなくなり、東京の像は1947年に「戦犯銅像」という事で東京都が撤去した。

 高山市竹田市には現在、復元したものが存在しているのである。竹田市の像(立像)は、2010年10月22日に竹田市の有志「広瀬武夫ブロンズ像建立実行委員会」により竹田市歴史資料館の広場に建立された。除幕式では首藤勝次市長が「今は政治も文化も混迷の時代だが、広瀬武夫像が私たちの大きな羅針盤となって未来を指し示してくれると思うと挨拶し、広瀬武尚(武夫の親族)氏が「日本人の本来の心を思い出すきっかけになってほしい」と述べたという。2017年12月には竹田市の広瀬神社の鳥居前に移設された。高山市の像(胸像)については1967(昭和42)年に特別寄進者の協賛により復元されたと言われています。東京都の撤去の対応と比べ、竹田市の像は10年ほど前に復元したものであり、現在もなお健在であるという事に、竹田市民の歴史認識に対する不可解さ不気味さを感じる。又、高山市の像の敗戦約20年後の復元と現在もなお健在であるという事にも、やはり竹田市民の歴史認識と同様の不可解さ不気味さを感じる。

(2024年11月30日投稿)

 

 

 


いちからわかる!台湾のWHO総会参加、日米は支持しているが中国認めず:共同宣言を詳説しないのは歴史を隠蔽歪曲し読者洗脳が目的か?

2024-11-30 10:26:28 | メディア

 2020年5月22日の『いちからわかる!』は「WHO総会に台湾はなぜ参加できない?」をテーマとして、「日米(政府)は支持しているが中国(政府)が認めず……」と見出しをつけていた。

 記事の主張の趣旨は、「中国政府は台湾に対して非道な対応をしている」とみなした「中国政府への非難」とその事について「読者である主権者国民へ理解同意を求める」のが目的のようで、記事の文章が、「中国は台湾を中国の一部だと主張している。しかし、蔡英文政権はこの主張を受け入れていない。中国は……蔡氏に圧力をかけている。台湾としてはWHO総会や専門家会合にもっと参加し、国際的な存在感を高めたいと考えていて、日本や米国も支持している。台湾の希望をかなえるのは、そう簡単ではなさそうだ」としているところにみられる。これでは読者に、中国政府側が台湾に対して一方的に抑圧しているかのような印象を与えてしまうだろう。しかし、朝日はそれを意図してこのような文章にしているとしか思えないのである。また、このような朝日の偏向した内容の記事中国政府に対する内政干渉ともいえ、日中両国の平和を望むそれぞれの国民は朝日に対する不信感を強める結果を招くだろう。

つまり、朝日は、かつてそれぞれの政府が相互に合意し、今日なお効力を有している米中政府間や日中政府間の共通認識隠蔽し歪曲し、読者に「中国敵視」を刷り込(洗脳)もうとしていると考えられるのである。

なぜなら、現在の台湾の国連やWHOとの関係についての説明について、「もともとは(WHO)加盟国だった。中国が1971年に国連に入る際に、台湾は国連を脱退した。その後、国連の専門機関であるWHOからも離脱した」として、いかにも台湾が自主的に決定してきたかのように書いているが、これでは読者は事実を正確に把握できないからである。朝日は、これまで米中政府間や、日中政府間を規定してきたそれぞれの政府間で合意し発表した「共同宣言」を詳細に説明すべきであろう。読者にそれを基にした説明をする事によってこそ、今回のテーマについて、読者は現状をより正確に理解できるのではないだろうか。現状の台湾の中国に対する姿勢はこれまでの共同宣言などの歴史を無視したトランプ政権安倍自公政権が引き起こしているものなのである。朝日や他のメディアは安倍自公政府の御用機関(国民洗脳機関=大本営)に堕してはならない。

米中共同宣言(1972年2月。ニクソンと毛沢東)

1、体制間の相違を相互に認め、それを超えて「平和共存五原則」に基づき国際問題及び2国間問題を処理する。

2、米中ともアジアに覇権を求めず、覇権主義(ソ連)に反対する。

3、「中国は1つであり、台湾は中国の一部である」との中国の主張を米側が認識した事。

4、米中の関係正常化はアジアと世界の緊張緩和に貢献する。

日中共同宣言(1972年9月。田中角栄と周恩来)

1、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つ。

2、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた事についての責任を痛感し、深く反省する。

3、日本国政府は、中華人民共和国政府中国唯一の合法政府である事を承認する。

同時に大平外相が、日華平和条約は存在意義を失い終了したと表明した。

※1971年10月、国際連合が中華人民共和国の国連代表権を承認

※1971年10月、台湾は国際連合から追放。あわせてWHOも離脱

※1972年、日中国交樹立で日本政府は台湾と断交

※1979年、米中国交樹立で米国政府は台湾と断交

(2020年5月24日投稿)


蒋介石国民党支配の50年代台湾

2024-11-30 10:24:08 | 中国・台湾

 蒋介石国民党は1950年以降、地方公職選挙を導入して、台湾人エリートの地方政治への参加を可能とし、中央政治における外省人支配との二重構造とした。青年層対策では1952年10月、蒋介石の長子蒋経国中国青年反共救国団を設立し、青少年に軍事訓練や娯楽を提供するとともに、これを組織化、政治的教化をし、反政府化を予防した。

 1950年代には、外省人知識人らによる雑誌『自由中国』が、国民党公認の反共自由主義から国民党の独裁を批判する傾向を強め、1959~60年には蒋介石の憲法改正、総統三選の動きを社説で批判、また、「中国民主党」結成を図った。

 この動きに対し、1960年9月、国民党は同誌編集長を逮捕・投獄し、同誌を廃刊とし、少数のリベラル知識人による民主化運動を圧殺した。

 この結果、中国大陸で共産党との内戦に敗退した国民党は、台湾での体制改革基盤強化に成功し、権威主義支配を再建した。

 これを可能にした背景には、神聖天皇主権大日本帝国政府が1905年から45年の敗戦まで植民地として支配するために作り上げた、すべての土地・住民を把握する体制がすでに存在していた事があり、国民党はこれを基盤として強固な支配を確立したのである。

(2022年11月25日投稿)


いわゆる「台湾出兵」は台湾占領と琉球処分強行の領土拡張(侵略)政策

2024-11-30 10:18:37 | 中国・台湾

 神聖天皇主権大日本帝国政府(当時実権は大久保利通が掌握)による、教科書的に表現すれば1874年5月の「台湾出兵」の目的は、大日本帝国政府が国境を画定するための軍事行動である。「台湾」全体を「占領」し、大日本帝国政府の領土とするためであり、併せて「琉球王国」の清国との両属関係を断ち切り、大日本帝国政府の完全な領土とする「琉球処分強行」ためであった。しかし、「台湾占領」は、清国の抗議や、英国の反対にあいこの時点で達成できず、1895年、日清戦争後の下関条約でついに清国に割譲させた。

 【経過】

○1871年、廃藩置県実施、薩摩藩は鹿児島県となり、琉球王国は鹿児島県の管轄

○1871年10月、琉球王国への上納を終え、宮古島へ帰る役人たち約70名が那覇港を出港。途中暴風にあい台湾東南岸牡丹社へ漂着し、54名が台湾の先住民族(パイワン族)に略奪殺害された。原因不明。

○生き残った者12人は清国の役人により1872年正月、福建省福州へ送られ、6月には琉球王国へ送還された。琉球王国の漂着民が台湾の先住民族に襲われる例は、1790年、1810年にも見られ、この事件と同様に生存者は琉球へ送還されている。

○1872年7月、琉球王国政府から鹿児島県庁へ報告。大山綱良鹿児島県参事は、「台湾先住民を討つべし」と大日本帝国政府へ報告。

○1872年9月、琉球藩設置。外交権接収、清国への朝貢禁止、琉球国王を藩王とし華族に列す。

 ➀琉球藩の事務は鹿児島県を離れ、琉球王国が締結した外国との諸条約も含めて外務省の管轄に移す(琉球の外交権停止

 ➁大日本帝国海軍が琉球列島を測量。

 ③久米島・宮古島・石垣島・西表島・与那国島に「日の丸」を立てる。

 清国は認めず琉球王国も抵抗。琉球王国の帰属争いは継続。国際問題化。

井上馨大蔵大輔の「琉球国」に関する建議……正院あてに提出

「〈百度維新〉を迎えた今、琉球の『あいまいな位置』を一掃し、『皇国の規模御拡張の御措置』をとるべ   き事を主張し、その方法として、武力による制圧は避け、琉球の『酋長』にその『不臣の責』を問い、これまでの歴史や『順逆の大義』を説いて、版籍を収めさせ、『内地一執の制度』を施行する、というもの。」

○1873年、大日本帝国政府は「台湾占領計画」を立て、宮古島島民の「台湾遭難事件」の責任の所在を求めて清国と交渉。清国は、台湾全島は清国の領土であるが、先住民族は中国の教えが及ばない「化外の民」である、と述べ責任を回避。

○1874年2月6日、大日本帝国政府は「台湾占領」と「琉球処分強行」の前提をつくるため、「台湾の先住民族地域は清国の領土ではない。主権者のいない地域である。大日本帝国政府の属民が殺害された仕返しをするのは政府の義務である」という事を根拠に台湾出兵を決定。

米英スペインなどの諸外国は大日本帝国政府の台湾への侵略戦争を警戒し、苦情申し出と局外中立を宣言。米国を当てにしていた大久保利通は計画中止を命令したが、西郷従道司令官は命令を拒否して出兵を強行。三菱汽船会社が軍事輸送を担当。

○1874年5月、西郷従道軍約3600名(鹿児島県士族300人を含む)は長崎を出発し、台湾南部に上陸し、パイワン族の住む牡丹社及び南部に住む先住民族を攻撃。戦闘は1カ月足らずで終了(その後も占領し続け撤兵は74年12月)。戦死者12名。マラリアなどで561名が病死。

※1874年5月、琉球藩を内務省の直轄地とし、井上の建議のような皇権拡張方針一貫して強行。琉清関係の廃絶と天皇のもとの中央集権国家機構の枠内に琉球を包含する「藩治職制」を強制。

○大日本帝国政府の「台湾占領」の目的は、清国の抗議、英国の反対にあい挫折。

○1874年10月、英国公使の仲介。清国は宮古島遭難民に対し10万両、大日本帝国陸軍が台湾で建設した道路や家屋の買収費として40万両、計50万両(約67万円)を支払う事で決着。大日本帝国政府は台湾を清国領土であることを認め、清国は琉球藩を日本領土である事を認める形となった。しかし、同年、琉球藩は清国になお進貢使を派遣。

○1875年5月、大日本帝国政府は内務官僚松田道之を琉球藩に派遣し、清国への進貢や冊封の廃止、藩王の上京鎮台分営の設置などを命じたが抵抗。琉球は米英清各国公使に救済を訴える。

○1876年、大日本帝国政府は琉球藩の裁判権・警察権を接収。

○1877年4月、琉球藩は受諾拒否し、王族の幸地朝常をリーダーに久米村の人間も集め、密使として清国福建省福州琉球館へ遣わした。清国は大日本帝国政府へ正式に抗議。清国公使から寺島宗則外務卿へ「隣国どうしの交際のならいに背き、弱小の国を欺くなど決してあってはならない」と。

○1879年4月4日、大日本帝国政府は再び松田道之を、警官160名、熊本鎮台から300余名の軍隊とともに派遣し、首里城武力で占領。琉球藩を廃し沖縄県を設置琉球処分)。450年間の琉球王国滅亡。藩王尚泰の上京、邸宅及び公債20万円給与、侯爵授与(1885年)、首里玉陵に埋葬。

○琉球王国滅亡の知らせは清国福州にも伝えられた。琉球館に派遣されていた琉球密使(脱清人)は北京や天津へ嘆願を直訴。幸地朝常は天津で李鴻章に嘆願。しかし、李鴻章は欧米列強と対抗するうえで、日本との関係を重視したため認めず。

※神聖天皇主権大日本帝国政府は、欧米的な近代国際法の論理台湾の先住民族を侵略し、琉球処分を強行した。その論理は、国境を明確にする事にあり、国境が明確でない土地は先に手を付けた国の領土(無住地先占)であるというもの。琉球各地に「日の丸」を掲揚した事や、神聖天皇主権大日本帝国政府が侵略した台湾の先住民族の族長たちに服属の証として「日の丸」を配布した事に見られる。

(2023年12月6日投稿)

 

 


朝日新聞GLOVE・Travel「歴史伝える秘密トンネル」台湾台北で隠蔽された日本植民地支配の歴史

2024-11-30 10:17:13 | アジア・太平洋戦争

 朝日新聞GLOVE・Travelが、台湾省台北市に遺る「~秘密トンネル」と題した記事を載せていた。それは「蒋介石とその妻・宋美齢が設けた脱出用秘密トンネル」としており、その所在地は、かつて(改築後)私もその玄関前まで訪れた事がある所で、彼らが海外の賓客を接待し宿泊させる専用施設として使用した高級ホテル「円山大飯店」地下にあるとしている。

 現在の建物は1973年に改築され14階建てとなっている。トンネル地下1階東西に1本ずつ存在し、西側(全長約85m)は2019年に、東側(全長約70m)は2021年に一般公開されたとの事。天井の高さと幅はどちらも2mほどで、4~5階の高さを曲がりくねった階段や坂道を下って外へ脱出できるように造られているようだ。

 この記事を見て残念に思った事がある。それは、後段で日本(神聖天皇主権大日本帝国政府)統治時代の建物として台湾総統府(元台湾総督府。総督は軍事指揮権のほか行政・立法・司法の権限掌握。初代総督は海軍軍令部長、海軍大将・子爵・伯爵の樺山資紀)とともにその時代の建物が多く残る迪化(てきか)街日本の植民地時代には非武装抗日運動の拠点であった)を紹介しているのであるが、最も重要な歴史を載せていない事である。それは蒋介石と宋美齢が円山大飯店を建てた場所に、かつてどのような建物が建てられていたかという事にまったく触れていない事である。総統府の建物などについて紹介をしながら、この事を紹介しないというのはどういう事だろう。プロとして知らないとは考えられないから、意図的に隠蔽したと言われても仕方がないだろう。

 つまり、円山大飯店が建てられいる場所は、神聖天皇主権大日本帝国政府国家神道に基づき1900年に、敗戦まで天照大神を祀った官幣大社「台湾神宮」を高台に建て、台北の街を見下ろすように存在していた場所であるという事実に触れていないからである。

 敗戦まで海外には、神聖天皇主権大日本帝国政府国教とした国家神道(日本各地の神社を、天皇の祖先=天照大神を祀ったとされる伊勢神宮を頂点とし、官幣社・国弊社・府県社・郷社・村社・無格社というランク付けをし、国家管理していた)に基づく同化政策=皇民化政策=民族性抹殺政策により建てた「神社」は約700社存在したといわれており、ブラジル・合衆国・中国・朝鮮・シンガポール・南洋諸島など広範囲に分布していた。

 日清戦争の結果、神聖天皇主権大日本帝国政府台湾を初の植民地とし、その支配のための重要政策として全島に神社を建てた。そして1900年には官幣大社台湾神宮を建て、その後、県社・郷社・村社・無格社の建設を進め、合計65社を建てた。神社に準ずる「社」(116社)も島の隅々にまで建てた。祭神天照大神である。台湾支配の特徴は「皇民練成」「皇民意識」の育成であった。帝国政府はアジア・太平洋戦争開始とともに、皇民化政策=同化政策=民族性抹殺政策を強化し、「皇国精神の徹底を図り国民意識の強化に努る事」と定め、日本語使用及び日本式への姓名変更とともに神社崇敬を重視強制した。それは台湾民族にとって寺廟の廃止にとどまらず芸術・風習まで「日本精神」を強制され、戦争総動員体制に組み込まれ使い捨ての駒とされる事を意味していたのである。

(2022年2月7日投稿)