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トヨタのベア非公表:「政権への配慮か」ではなく「これまでの労働組合運動からの離脱、労働者の権利の放棄」を意味する。連合会長・神津里季生氏の発言姿勢は労働者の立場を代表していない

2024-07-22 21:18:09 | 労働組合

 トヨタ自動車労組は2019年1月28日、今春闘において、賃金の底上げ分に当たる「ベアの具体額を明示しない」と決めたようだ。労組委員長・西野勝義氏は「ベアだけに焦点が当たった交渉では格差は縮まらない」と経営側と同じ考え方をしている。しかし、マツダ系列労組幹部は「トヨタ労使のやり方では回答の中身がブラックボックスになる。本当に賃上げしたのかも検証できない」と批判している。また、大手電機メーカー組合員は「会社によって働き方は大きく変わらず、ベアという同じ目標に向かって闘うのが本来のあり方だ。個別に交渉すると労働側の力を削ぎ、全体の賃金の底上げにつながらない」と主張している。しかし労働者にとって大きな問題は、ベア率を方針の前面に打ち出してきた労働組合中央組織連合会長である神津里季生氏がそれを今年から見直しトヨタ労使と同様な考えに傾き、各労組が理想の月額賃金を提示して交渉(個別交渉)するよう勧めている事である。この姿勢は労働者に保障されている労働三権(団結権・団体交渉権・争議権)を含む労働者の権利を自ら放棄するもので、労働者としては「自殺」行為である。

※以下は昨年4月6日に投稿したものですが、改めて投稿します。神津里季生氏についても別に投稿していますので参考にしてください。

 2018年4月4日の新聞に、「トヨタ ベア非公表波紋」「春闘 回答不明で検証できず」「政権への配慮か」との見出し、小見出しの記事が載っていた。

 経営側の要請である「ベア非公表」に対し、労働組合側が「どのように対応したのか」という点に非常に関心をもったが、その際、一旦は「拒んだ」ようであるが、結果的には「受け入れた」という事である。

 この動きに対し新聞記事は、「政権への配慮か」という評価に終わっていたが、この問題はそれだけではない。新聞は労働組合運動におけるもっと重要な点を見落としている。それは、トヨタの労働組合が労働運動の基本原則である「団結」原則を打ち捨てたという事であり、それは「これまでの労働組合運動スタイルから離脱する道を選んだ」事である点である。経営側の思惑通りに労働組合運動が分断されたという事なのである。

(2022年2月12日投稿)

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連合を混乱させた執行部は何が問題なのか?それは安倍政権と同類の個人の人権を否定するファッショ体質

2024-07-12 08:00:37 | 労働組合

 2017年7月13日から起った連合の混乱は、神津会長を含む執行部(逢見事務局長、村上総合労働局長ら)が起こしたものである事をしっかりと抑えておかなければならない。

 彼ら執行部は、「労基法改正案」について、3月末から独断専行で安倍自公政権と修正交渉し、7月19日までに経団連も交えて「政労使合意」を結び、安倍自公政権は今秋の臨時国会に出し直す予定をしていたようだが、その内容を7月8日に初めて連合傘下の主要産別の幹部に伝えた時点から、異議や反発の意思表明が噴き出し、結果的に7月27日、会長を含む執行部が「組織に混乱を招き、迷惑をかけ申し訳なかった」と陳謝し、「修正のみの政労使合意を模索したが、この趣旨についての一致点は現時点で見出せない。よって、政労使合意の締結は見送る」と逢見事務局長名の談話を発表する事によって一時的に収束を目指したようである。

 ところでなぜ執行部が厳しい批判反発を蒙ったのだろう。それは現執行部の体質にこそ問題が存在するのである。傘下の組合・組合員はそれを正確に分析し改善を施さなければ近い将来同じ過ちを繰り返す事になるだろう。それこそが最大の教訓として学ばなければならない事なのである。

 執行部の体質は、これまでの経過の中で見られる「姿勢」や「発言」にすべて表れている。たとえば、この執行部は、政府との交渉(要請内容)について傘下の主要産別の幹部に伝えたのは7月8日の会議においてである事。当然、紛糾したので11日に傘下の産別幹部を「懇親会」という形で召集し釈明したが、その際「組織内での議論や了承は必要ない」と、執行部の手続きに問題はないと自らの姿勢の正当性を主張している。

 執行部は21日に中央執行委員会を開き、方針転換への了解を得ようとしたが、10以上の産別や地方組織から異議が噴き出し、主要産別からも異議がでた。執行部はそれでもなお同じ場で、主要産別の三役会に対応を一任するよう示唆している。

 会長を含む執行部のメンバーは、自己の価値観を押しつける、独善的で傲慢で、ファッショ的体質を持っているという事である。そのため、傘下の組合や組合員という、個別の意思を尊重する姿勢や、個人の人権を尊重するという姿勢を有していないという事なのである。自分たちこそが優秀で、自分たちの考え方や価値観こそが正しいと信じており、だから自分たちの決めた通りにみんなは従えば良いのだ損はしないのだ、という思考体質なのである。つまり、労働組合で最も重要な「人権尊重」「民主主義」を軽視否定するものなのである。

 この、個人を尊重する、個人の人権を尊重するという姿勢を有していない、という姿勢は、ほかでもなく「安倍自民党政権」とまったく同様なのである。その事は、「自民党改憲草案」第13条に明確に規定している。それは、「全て国民は、(現行は「個人」)として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序(現行は「公共の福祉」)に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない(現行は「最大の尊重を必要とする」)」である。しかも、憲法改訂(改悪)が成立していない現状においてすでに、あらゆる面で現行憲法を軽視否定し、先の「草案」に基づいた姿勢を悪びれる事もなく堂々と国民の前に見せているのである。

 今回、連合の組合や組合員などはどのような反発をしているだろう。それは、「なぜ組織に諮らずに水面下で交渉したのか」とか「充分な組織的議論と合意形成の努力を行うべきだ。今回の対応は手続きの面で大きな問題がある」とか「労働者保護ルールの改悪は認めないという基本的スタンスを堅持すべきだ」とか「本当に危険な制度が、働き方改革実行計画の中でセットされている事が問題」とか「ずっと反対してきたのに、組織内の議論を経ずに突然方針を変えますと言われても困る。組合員は納得してくれない」とか「内部の合意形成もないまま執行部だけで急な動きを見せている。組織として非常にまずい」とか「なぜ内部で深く議論せずに結論を急ぐのか」とか「長時間労働の是正を呼びかけてきた組合員に対する裏切り行為で、断じて認めるわけにはいかない」とか「組織的な合意形成のあり方が粗雑だ」とか「向こうの言い値で買いましたって事だ。連合は主張していないのと同じではないか」とか「今の連合は労働者の代表とは言えない」とか「連合は勝手に労働者を代表するな」とか「要請内容はどれも根本的な修正ではない。政権が弱っている中、わざわざ塩を送るような真似をするなんて、政治的センスを疑う」とか「組織に諮らずこんな重要な方針転換を決めるのはあり得ない。会長になったらどれだけ独断で決めていくかわからない」などなどである。

 「合意」と言えば、安倍自公政権主導の日韓両政府による「慰安婦合意」に関する混乱も、上記と同様、両政府の体質が原因となって生じているものである。日本のNPO法人「言論NPO」と韓国のシンクタンク「東アジア研究院」の実施した今年の日韓世論調査(6~7月実施、18歳以上の約千人ずつから回答)によると、慰安婦問題が一昨年末の日韓合意によっても「解決されなかった」とする答えが、日本は53%、韓国は75%であった。日韓合意を「評価しない」としたのは、日本は25%、韓国は55%。その理由の最多が、韓国では「慰安婦の意見を反映せず合意した」が77%であるところに表れている。日韓合意に対する韓国人の不満をどう見るかでは、日本は「理解できない。合意を結んだ以上は履行すべきだ」が最多の49%、「なぜ不満があるのかわからない」が22%で、あわせて71%。日本人は日韓合意の内容をよく理解していないようだ。また関心がないようだ。

ところで、この執行部や安倍自公政権の思考体質は、実は明治維新から敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府の為政者やそれによって作られた教育内容によって国民の隅々まで植え付けられた(洗脳された)体質と同様のものである事を知っておこう。植民地(人)に対する日本人(特に為政者権力者)の意識や、大東亜共栄圏の盟主としての日本人(特に為政者権力者)の意識と同じなのである。つまり、自らを優秀と見做し自己の価値観を押しつける、独善的で傲慢、ファッショ的な思考体質なのである。そこには民主主義も人権尊重の意識も見られないのである。

(2017年7月28日投稿)

    

 

 

 

 

 

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連合会長は偏狭な思考固執をやめ科学的(客観的論理的実証的)思考に基づいた労組運動を!新会長芳野友子氏も!

2024-07-12 07:51:11 | 労働組合

※2017年6月6日の投稿を再度投稿します。

 2017年3月1日の朝日新聞記事『連合 だれのために』を読んだ。連合会長の神津氏がインタビューに答えたものであった。彼は「私は幻想を抱かないし、幻滅もしません。現実を直視します」と話しているのであるが、彼の表明している考え方は、彼の言葉とは逆に、現実を直視していると思えないし、極めて非科学的(非論理的非実証的、主観的で偏狭)な思考に基づいているため現実が正確に見えていないとしか思えないのである。そして、その状態で思考停止(固執)しているとしか思えないのである。

 なぜなら彼は「ただでさえ強い自民党に立ち向かっていくのに、野党がバラバラでいいはずがない。でも、野党の候補者が共産党に一本化となった場合、連合が応援することは絶対ありません。共産党とはめざす国家像が違う。連合は左右の全体主義を排し、広い道の真ん中を歩く。」と話しているのであるが、これは極めて幼稚で非現実的な考え方あるとしか言いようがない。人はすべて考え方は異なるものである。政党もすべて考え方は異なるものである。しかし、現時点で野党が連帯する事が政治を変える唯一の方法であるならば小異を捨てて大同につく事が当然であろう。そのように柔軟に考える事ができないのであろうかと思う。もっと言えば、現時点において、彼の言う「共産党とはめざす国家像が違う。野党の候補者が共産党に一本化となった場合、連合が応援する事は絶対ありません。」という考え方が国民にどれほどの説得力をもっているだろうか。国民の多くは彼の理解に呆れているであろう。彼の理解は安倍政権の理解とまったく同じである。彼の思考形態は偏向した陳腐な紋切り型のパターンのままで停止しており、まったく非現実的思考としか言いようがないものである。こんな考え方では物事や状況を的確に分析できず誤った運動方針を導く事になり、誤った運動方針に基づいた労組運動しかできないのである。またあわせて、本来連帯すべき共産党に対して誹謗中傷する効果を生じさせる事になり、野党を対立させ分断を煽る事になるのである。それも連合会長みずからが。このような思考形態をする限り、安倍政権にとって「連合」は「敵」ではなく政権を利する扱いやすい「お友達」(翼賛団体)という事になっているであろう。

 また、神津氏は「連合は左右の全体主義を排し、広い道の真ん中を歩く」と話しているが、物事を分析判断するのに「客観的(科学的)」という事は極めて重要であるが、労組運動の現実の行動においては「真ん中」の道など幻想であり机上の空論であり、存在しない。その事を故意に認めず上記のような発言をしていると考えてよい。それをしめす直近の発言がある。

 たとえば、2017年5月24日の民進党幹部との会合で神津氏は、安倍首相の改憲表明を受けて、連合として憲法への対応をまとめる方針を明らかにし、「緊急事態条項などすぐやった方がいいものもあれば、安全保障のようにしっかりとした基本的な考え方とセットでやった方がいいものもある」と話しているように、安倍政権に対し「容認」の姿勢を表明した。この動きをみると、神津氏の今回のインタビューでの発言は野党の分断を目的として「意図的」に行われたものと考えてよい。神津氏は労働組合の会長でありながら、その価値観や思考形態は「労働者」の側には立っていないという事を公然と自ら証明したという事である。

(2017年6月6日投稿)

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天声人語「プラカード事件」(食料メーデー);「過激な言い回しに共感はできない」は国民生活実態の認識に誤り

2024-05-10 22:23:03 | 労働組合

 「プラカード事件」は、GHQ天皇国民の権力関係を象徴的に示した事件であった。

 「天声人語」の筆者はなぜ、「プラカード」の実際の文言の最初の部分に「国体はゴジ(護持)されたぞ」という文言が書かれていた事を紹介しなかったのだろう。そして、なぜそれ以下の文言を「過激な言い回し」と感じ、「風刺精神」として理解しているのだろう。このような体裁の記事にしたのは、おそらく読者に対する情報操作を目的としたものであろうと推測する。

 2017年1月26日の天声人語は、1946年5月19日「飯米獲得人民大会」(食料メーデー)に起こった「プラカード事件」に触れていた。「プラカード」の文言を「朕はタラフク食ってるぞナンジ人民飢えて死ねギョメイギョジ」と紹介し、筆者は「過激な言い回しに共感はできないが、底にある風刺精神だけは胸に残った」と書いている。

 「プラカード」の文言は正しくは、「詔書 国体はゴジ(護持)されたぞ、朕はタラフク(腹一杯)食ってるぞ、ナンジ(汝)人民飢えて死ね、ギョメイギョジ(御名御璽)」である。

 「国体護持」については、天皇は「終戦の詔勅」で「『忍び難きを忍』んで降伏し『国体を護持し得』た事を喜び、『神州の不滅を信じ』、今後いよいよ『誓って国体の精華を発揚』する事を国民に求めていたのであり、天皇制維持の一点以外のすべては問題としていなかった」事は事実であり、天皇家の食生活が豪華であった事も事実であった。それに対し国民の食生活は「竹の子生活」といわれ、敗戦直後からインフレはますます進んでいた。また、敗戦年の産米は風水害・天候不順・肥料不足などのために記録的な凶作となっていた。農民は安い供出にまわすより高い闇値で売り、生活維持に懸命であった。消費者は主食難となった。また、軍隊や軍需工場からの復員者により購買力の一時的増加、敗戦直後、臨時軍事費からの軍需品の未払い代金や注文打切りによる補償金などが一時に支払われた。しかし、物資は極端に不足しており、インフレは高進した。食糧不足は多くの国民を死に追いやり、栄養失調者を多く出していたのである

 また、朝日新聞の45年11月2日の記事や、同年12月12日の投書欄「声」にも上記と同様の悲壮な国民生活の状況を示す記事が載っている。

 プラカード事件は、1946年5月19日に、皇居前広場で、労働戦線統一世話人会の呼びかけで行われた「飯米獲得人民大会」(食料メーデー、25万人参加)の後のデモ行進で上記のプラカードが掲げられた事により起こった。 大会では「上奏文」も採決された。内容は「わが日本の元首にして統治権の総攬者たる天皇陛下の前に謹んで申します。私達勤労人民の大部分は今日では三度の飯を満足に食べておりません。空腹のため仕事を休む勤労者の数は日毎に増加し今や日本の総ての生産は破滅の危機に瀕しております。しかも現在の政府はこの現状に対し適切な手段を取る事無く、権力を持つ役人、富を握る資本家や地主達は食糧や物資を買い溜めて自分達だけの生活を守っているのであります。このような資本家地主の利益代表者たる政府並びに一切の日本の政治組織に対し、私達人民は少しも信頼しておりません。日本の人民は食糧を私達自身の手で管理し日本を再建するためにも私達人民の手で日本の政治を行おうと決心しております。……人民の総意を御汲み取りの上、最高権力者たる陛下において適切な御処置をお願い致します」というものである。

 さて政府は、プラカードを掲げた松島松太郎(当時、日本共産党田中精機細胞所属)を起訴した。検事側の起訴理由は「之を観る者をしてあたかも天皇が敗戦にも拘わらず、国体が護持された事に痛く満足し、当面の食糧危機に際しても自ら独り飽食し、飢餓に瀕せる人民大衆をあえて顧みない、冷酷無情の人柄であるが如き感を抱かしめ、ひいては天皇の名誉を毀損するに足る文言を表示した」というものであった。

 それに対して被告・弁護側の反論は「プラカードの文言は、いわゆる天皇制に対する政治的批判を風刺的に表明したに過ぎない……不敬罪は日本政府がポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印した時点で実質的に失効しており……名誉毀損は親告罪であるのに天皇が告訴していない」というものであった。

 このような動きに対してGHQ(マッカーサー)は、事件翌日の5月20日の「暴民デモ許さず」の声明発表につづいて、政府側の不敬罪存続と適用の意向を却下した。

 しかし、1946年11月2日、東京地裁は「名誉毀損罪を適用し懲役8カ月の実刑」の判決を言い渡した。判決理由は「プラカードの表現は天皇制の政治批判というよりは、野卑低劣、侮辱的、煽動的であり、天皇に対する嫌悪感情を誘発する事を意図しており、名誉毀損に当たる。天皇の親告がなくても検事が代わって告訴できる」としたのである。さらに、46年11月3日の新憲法公布にともなう「大赦令」により「免訴」とした。

 被告・弁護側は「免訴」を不服とし、有罪そのものが不当・無効であるとして、東京高裁に「控訴」した。

 吉田茂首相(1946年5月22日~、衆院の議席を持たず「大命降下」で就任した最後の首相、議院内閣制によるものではない)は1946年12月末、マッカーサーに書簡を送り、執拗に「不敬罪」の存続を求め、それが無理ならせめて「大逆罪」だけは残したい旨を伝えた。マッカーサーは47年2月末、吉田首相あての返書で「不敬罪を含む皇室に対する罪の全面削除」を助言した。

 47年6月28日、東京高裁は「不敬罪には国家存立のためのものと、天皇個人の名誉毀損(特別名誉毀損罪)とがあるが、ポツダム宣言などで消失したのは前者であり、プラカードの表現は天皇の誹毀誹謗の行為に当たる。この行為は日本国ならびに日本国民統合の象徴にひびを入らせ、刑法不敬罪の名誉毀損の特別罪に当たる」として、不敬罪の成立を認めた上で、「大赦令」による「免訴」を言い渡した。

 被告・弁護人憲法違反として最高裁に上告した。不敬罪は47年10月26日に廃止された。

 48年5月26日、最高裁は「大赦によって公訴権が消滅した以上、実態上の審理はできなくなり、免訴の判決を下すのみである。したがって被告人も無罪の判決を求める事はできない」として上告棄却した。

GHQが被告側を支持したのは、「万人は法の下に平等であり、特定の階級が特別の法的保護を受けるべきではないという立場であって、デモそのものを支持したのではなかった」

※民間企業と比較して賃上げが遅れていた公務員は、46年11月に全官公庁労組共同闘争委員会を結成し、47年1月18日、吉田内閣打倒・人民政府樹立をめざして、同年2月1日に無期限ゼネストに突入する事を宣言した。それに対してマッカーサーは同年1月31日、「二・一ゼネスト中止を命令し、声明を発表した。

(2017年1月28日投稿)

 

 

 

 

 

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メーデー:安倍自公政権とメディアが仕組んだ新天皇新元号フィーバーに主役奪われた。日本最初のメーデーで歌われた歌詞に深い感慨。今日の労働運動はどれだけ進歩できたのか

2024-04-28 09:37:56 | 労働組合

 2019年5月2日の新聞に、新天皇や新元号などに関するひときわ目立つ派手で大きな写真や大きな見出しの記事に紙面を圧倒的に占められ、そっちに目を引かれて見過ごしそうになるほど目立たない地味で小さな見出しで写真も付けられていない形で「メーデー」の記事が載せられていた。この両者に対する扱いにはメディアの価値観が期せずして表れていると言って良いが、それはメディアの国民主権に対する認識がいかに低いかを示すとともに、国民の認識の実態にシフトしたものであるともいえる。新聞やメディアは、天皇制について自覚の乏しい多くの国民を信じて、安倍自公政権との徹底した対決や問題点の究明をする事より、皇室讃美の記事を報道する事の方が読者や視聴者の関心に答える事になり経営上も利益を上げる事ができる事を戦前の経験や戦後これまでの経験から身に染みて理解しているのでそのようにしたのである。そして、この状況は安倍自公政権にとっては期待通りの極めて喜ばしい状況であるという事だ。全労連は代々木公園に約2万8千人が参加し、「8時間働いて普通に暮らせる賃金・働くルールの確立」「全国一律最低賃金制度と最賃時給1500円の早期実現」などの宣言を採択。小田川議長は「大企業の内部留保が増加している、元号が変われば、富の偏在は改まり、過労死するまでの働き方でも賃金が低下する異常は解消されますか、いずれも答えはノーです」と抗議した。全労協は日比谷公園で約6千人が参加した。

 日本における最初のメーデー世界最初のメーデーは1886年5月1日、米国労働者が8時間労働実現と総同盟罷業を決議)神聖天皇主権大日本帝国政府下の1920年5月2日(当年のみ2日日曜日。当時労働者は日曜日でなければ参加できなかった。)であった。大会の資金幸徳秋水の遺著の印税から提供された。当時、労働運動は1912年8月に作られた「友愛会」が、1919年8月には「大日本労働総同盟友愛会」、1920年10月「日本労働総同盟友愛会」、1921年10月「日本労働総同盟」へと発展し、その中で神戸川崎造船所や八幡製鉄所の争議、東京での普通選挙法デモなどが闘われた。

 日本に初めてメーデーを紹介したのは、1890年、フランスにいた中江兆民門下の酒井雄三郎が、徳富蘇峰の『国民之友』に寄せた「5月1日の社会党運動」であった。日本で最初のデモは、1898年4月10日労働組合期成会が東京遷都30周年を利用し、本石町から上野公園までの800人のデモであった。

 最初のメーデーは東京上野公園で実施されたが、日曜日であったため参加者は1万人となった。治安警察法第17条(ストライキを制限する内容)の撤廃、失業防止(当時戦後恐慌)、最低賃金法の設定、8時間労働制、シベリア出兵の即時撤兵公費教育の実現、言論絶対自由などを決議した。

 そして、この日に歌われた歌が下中弥三郎の作詞である以下のような内容であった。下中は、埼玉師範卒業の小学校教師によって作られた日本最初の教員組合である啓明会(1919年8月)代表であり、この歌は一高寮歌「あ々玉杯に花うけて」の曲にのせて歌われた。

 この世の富も繁栄も   われ等が汗の末になる

 われ等が手をばおく時は 世界も闇となりぬべし

 汗の値の貴さを     いざ遊民に示さばや

 (略)

 あ々メーデーよ、メーデーよ 

 飢餓貧乏の恐怖なき   自治労働の新社会

 建設すべき我々の    志気を天下に示すべき

 一年一度の祝祭よ

 この歌は第2回まで歌われたが、第3回からは大場勇作「聞け万国の労働者」に変わった。

 また、1923年9月の関東大震災後、ファシズムの強まりにより労働運動は抑圧され分裂し、メーデーは1936年の2・26事件以後禁止された。

 労働運動の曲折についてみると、労働総同盟は1924年2月大会で、運動の「方針転換」を宣言。運動の大衆化をめざし、「現実主義」とする立場に立ち、政治的に経済的に改良運動を重視。労働者の要求は、資本家の情態を考慮し、その要求が社会一般から受け入れられるかどうか、工場側が許容できるかどうかを条件に「過大な」要求をかかげる態度を退け交渉において、「相手が常識的である場合に於いては、出来る限り罷業団に於ても温和に……理論整然と交渉すべき」であり、「裏面に於てなされる戦術が、争議の勝敗を決定する重要な役目を持っている」との態度を表明(『労働』大正14年8月15日)。

 「現実主義」は端的に言えば、革命主義に対決する反共主義であった事は歴史がすでに示す通りである。その反共主義は天皇制権力と資本家の反共主義と軌を一にしていた。反共主義の体質は神聖天皇主権下で権力の弾圧を回避できたし、資本家側からも理解を得る事を可能とし、その組織の安定を保つ事ができた。しかし、権力や資本の侵略や反動化には、労働者の日常的利益に対してすら闘わず順応するという論理を内に有していた。現在の「連合」の姿勢に対してどのような評価が多いかによって、これからの労働運動のあり方と労働者の位置づけが決まっていくであろう。日本の労働運動はあれからどれほど進歩できたのだろうか。歴史から何を学ぶべきか?

(2019年5月2日投稿)

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