2016年10月13日の朝日新聞の「特派員メモ」の欄に、9月16日に中国遼寧省撫順で行われた「平頂山事件式典」に関する記事が載っていた。これを見て、1997年の夏に義父と2人で中国東北部を10日ほどかけて「戦跡をめぐる旅」をした事を思い出して、その時にまとめた旅行記を改めて読み返した。
1932年に旧日本軍が平頂山村の村民約3000人を虐殺した事件である。生存者のうち3人は日本で損害賠償を請求する訴訟を起こしたがすでに敗訴が確定し、昨年7月3日には、原告となった最後の一人が87歳で亡くなった。現在、事件の生存者は訴訟に参加しなかった2人だけとなった。
特派員は、2013年に亡くなった元原告・王質梅さんの遺族である張英夫さんを取材して以下のような言葉を聞いたという。それは、「以前は日本人を『人殺しの悪魔』だと憎んだが、今は違う。日本人はすばらしい」「長く付き合えば、関係は自然と良くなる。私たちが日本人を許せる日は来ると思うよ」というものだ。
特派員は言う。「『残虐な日本軍』による被害をあまり強調されると、心の中で反発してしまう事もあるが、張さんの言葉には、そんなどぎつさは消えていた」と。
張さんの変化は日本人に何を教えてくれているのだろうか。張さんは自身の変化については、カンパなどを通じて王さんたちを支えた日本の弁護士(毎年式典に参加している)や市民らとの出会いがあった事だと語っているが、これこそが日本人として中国の国民と友好関係を取り戻すためにもっとも必要な事なのである。
つまり、信頼関係を築くための努力を重ねる事なのである。それは加害の実相を知り、被害者の悲しみ怒り恨み苦しみなどを知る事から始まり、謝罪の気持ちを忘れず、被害者の苦難に寄り添い支援し、再び政府が加害行為に及ぶ場合にはかつてのように加担しない生き方を示していく事であり、それこそ戦後世代の負うべき戦争責任の姿として求められているのである。
このように考えると、特派員は「張さんの言葉をかみしめた」、と独り合点しているが、メディアの人間としてこの記事によって読者が十分に理解ができる情報を伝達できたと満足してもらっては困る。なすべき事に気づいただろう。それは「平頂山事件」の実相を詳しく伝える事である。
1931年9月18日、柳条湖事件に端を発した「満州事変」で、関東軍は中国東北部を占領した。翌32年3月1日には「満州国」の建国宣言がなされた。そして、同年9月15日には日本政府が「日満議定書」に調印し、「五族協和」を掲げた「満州国」(日本関東軍の傀儡国家)を承認。これに反発した抗日ゲリラが、撫順炭鉱(中国から無理矢理奪い取り「満鉄」が管理していた)を襲撃。10カ所あった採炭所のうち、4カ所の事務所が焼かれ、日本人社員数名が殺された。炭鉱を警備していたのは独立守備隊歩兵第2大隊第2中隊で、中隊長不在時に不覚を取った某中尉は、隣接する平頂山村の村民がゲリラに通じていると断定し、報復のため「虐殺」を計画した。翌16日午後、警備隊と憲兵隊合わせて190余名が3台のトラックで乗り付け村を包囲。着剣した小銃をもった日本兵は、各戸に押し入り、村人をすべて追い出し西側の崖下へ集合させ、村人の住居には火がつけられた。
機関銃と小銃、ピストルが一斉に火を噴き、村人たちの虐殺を開始した。村人は次々と斃れた。一斉射撃が終わると、日本兵は斃れている村人の一人一人を点検し、まだ息のあるものを銃剣や小銃、ピストルで息の根を止めた。赤子や子どもも含めた皆殺し(無差別大量虐殺)であった。その後、事件を隠蔽するため死体の山にガソリンをかけて焼き、ダイナマイトで崖を爆破して死体の山を土砂と岩で埋めてしまったうえに、周りには高圧線を張り巡らせ立入禁止区域としたのである。敗戦後まで、日本国民にはこの事件を知らさなかった。
1971年に、犠牲者のうち800人の遺骨が掘り出され、虐殺当時のまま、建物で囲み保存している。それが「撫順平頂山惨案記念館」(「平頂山殉難同胞遺骨館」を改称)である。