安倍自公政府は2019年9月20日の閣議で、「即位礼正殿の儀」が行われる10月22日に、各府省に対し、祝意を表すために国旗を掲揚させる事を決定したという。また、自治体や学校、会社などでも国旗を掲揚するよう協力を要請する事を決定したという。
このような安倍自公政府の決定は、極めて自己都合の決定であり、法律違反というべきであり、法的には従わなければならない義務はないし、応じなければならない理由のないものである。政府がそのような決定をした背景には、平成の代替わり時に今回と同じ対応を求めたという前例があるからそれに基づいて行うという考え方のようである。しかし、そのような「前例」踏襲なる理由を認めるわけにはいかない。なぜなら平成の代替わり時には国旗国歌法(1998年8月)は制定されていなかったにもかかわらず、つまり、政府は非合法に、官庁自治体公的機関などや会社国民に掲揚を要請していたのである。つまり、自民党第2次海部政府は権力を濫用して決定し協力を要請していたのである。そして、その国旗掲揚の内実は政府による強制と政府に対する忖度によって行われたものだったのである。だから、主権者国民はこの事実を理解し、政府が「決定」と「協力」の根拠とする「前例」踏襲なる理由を受け入れなければならない理由はまったくないのである。また、政府が、今回は国旗国歌法が制定されているのでから掲揚を決定したり、国民に協力を要請したりできると考えているのであればそれも誤りである。国旗法はそのような事ができる内容ではないからである。だからまた、主権者国民は法的にも政府の国旗掲揚の協力要請に応じる必要はないのである。
「決定」や「協力要請」に応じる必要がないのは、上記のような理由とともに、さらに重要な事がある。日の丸が示している意味が憲法の政教分離の原則に違反するとともに、神聖天皇主権大日本帝国政府による侵略戦争を象徴するものであったにもかかわらず、敗戦による憲法改正後も自民党政府(現在は安倍自公政府)はその歴史を反省して変更しようともせず(戦前も日の丸は法律で国旗として制定された事はなかったので、法的に変更するというわけにはいかない)、それどころか戦争行為の正当性を示す(聖戦)ための否定してはならないシンボルとして使用してきた。それも法律で制定されていないのだから非合法で。そして、1998年8月国旗国歌法を強引に制定して日の丸を固守したのである。そして、国旗国歌法は処罰法ではないにもかかわらず、国旗掲揚国歌斉唱に反対し抗議し拒否する者に対して処分を科している(職務命令、司法判決など)事を許している状況があるからである。もちろんこれも非合法。これ以上安倍自公政府による不法行為を許してはならないし、国民は政府の意向を忖度してはいけない。安倍自公政府を喜ばせ彼らの思うつぼにはまるだけである。
1858年に締結した日米修好通商条約(安政の五カ国条約)改正予備交渉のための岩倉遣欧使節の副使であった伊藤博文が、サンフランシスコ到着時の歓迎会挨拶の結論部分で日の丸について次のように話している。
「わが国旗(敗戦まで法律で制定されていない)の中央にある赤い丸は、最早江戸時代のように封印された帝国を示す封蠟のように見えるのではなく、将来は、本来のデザインであった昇り行く太陽の崇高な記章となり、世界の文明諸国に伍して、前方に、また上方に動こうとしているのであります」
ここに見られるように日の丸は太陽を意味しており、それは記紀神話で皇室の祖先としている、伊勢神宮の祭神天照大神を表しているのである。つまり、日の丸は宗教的シンボルそのもので日の丸を国旗として法律で定める事は憲法の定める政教分離原則に違反するという事である。国旗国歌法は憲法違反という事でもある。
国定教科書教師用書では、「日本は日の本の国、神のつくり給うた有難い国で、日の丸はこの国柄にもっともふさわしい旗であり、『天来神授』の旗である」と書かれていたが、教師はこのような旗である事を子どもに教えよと指示されていたのである。
修身の教材「日の丸の旗」では「日本人のいるところには、かならず日の丸の旗があります。……敵軍をおいはらって、せんりょうしたところに、まっ先に高く立てるのは、やはり日の丸の旗です。兵士たちは、この旗の下に集まって、声をかぎりに、「ばんざい。」をさけびます。日の丸の旗は、日本人のたましいと、はなれることのできない旗です」とあり、子どもたちに刷り込んで(洗脳)いたのである。