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江戸時代に初めて「種痘」をもたらした中川五郎治

2025-01-31 18:54:25 | 伝染病

 「種痘」とは、牛痘を人体に接種し、「天然痘」に対する免疫性を得させ感染を予防する方法である。1796年ジェンナーが発明した。植疱瘡中川五郎治江戸時代の日本に初めて初めて「種痘(牛痘)」をもたらした。1768年陸奥国北郡川内村(青森県下北郡川内村)に生まれた。松前に渡り奉公働きをするうちに、北方開拓を決意し「択捉島」に渡った。そこで認められ幕府番小屋の番人小頭になり、ロシア語の通詞(通訳)助役ともなった。1807年ロシア人に襲われシベリアに抑留された。1812年釈放され「国後島」に帰ったが、帰国前にロシア語の「種痘書」を入手し「種痘法」も見学した。

英国の外科医ジェンナーが「種痘法」を発明したのは1796年の事であるが、「天然痘」に苦しんでいた欧米諸国に急速に伝わった。ロシアでは1801年に「種痘」が始まり、シベリアにもかなり普及していた。

 五郎治は江戸に送られて取調べを受けた後、松前の役人となった。1824年松前地方に「天然痘」が大流行した。五郎治はシベリア抑留中に見聞した「種痘法」により人命を救おうと決意し、「田中イク」という名の11歳の少女に「種痘」をしたのを手始めに、次々と多くの人々に「種痘」を施していった。「痘苗」は「天然痘」患者の「」をに植えて「牛痘」を発病させ、それから得たものであった。人間の腕に小刀の先端で血の出るまで傷をつけ、その部分に水を溶かした「痘苗」を塗り付けた。「種痘」を受けたものたちは、「天然痘」にかかる事がなかった。五郎治の「種痘法」は松前の一部地域に限られ、わずかに白鳥雄蔵により秋田に導入されたに過ぎなかった。

シーボルト長崎で「種痘」を試みて失敗、1839年にはオランダ商館医のリシュールが「牛痘苗」を長崎に持ってきて接種したが失敗、長崎で「種痘」に成功したのは1849年(五郎治は1848年80歳で死去)で、オランダ商館医モーニッケに依頼してバダビアから「牛痘」の「かさぶた」をもらい、佐賀藩医楢林宗建の子息建三郎らに接種して成功し、それ以後全国的に広まった。

 五郎治がシベリア抑留中に入手した「種痘書」は幕府の役人に没収され、オランダ語の通詞であった馬場佐十郎に渡された。佐十郎はオランダ商館長から「種痘」の事を聞いていた事もあって、この書の翻訳にとりかかった。1811年に箱館・松前に捕らえられていたゴローニン(1776~1831。『日本幽囚記』。高田屋嘉平が釈放に努力)についてロシア語を学び、1820年に訳し終え、『遁花秘訣』(日本最初の種痘書)と名づけた。1850年医家の利光仙庵により『魯西亜牛痘全書』と題して刊行され広く知られるようになった。

神聖天皇主権大日本帝国の大正時代になって、日本に初の「種痘法」をもたらした功績が認められ、北海道庁から表彰された。の所在は不明である。

天然痘(疱瘡)は江戸時代には毎年流行した。死を免れた者も「あばた」をのこし、身体に欠陥ができたり、失明する者も多かった。『雨月物語』をのこした上田秋成は、少年時代に重い天然痘疱瘡)にかかり、指が不自由になったが、この時、神仏の恵みに感じ、ひいては神秘現象への関心を抱くようになった。天然痘疱瘡)のために世継ぎが死亡し「お家断絶」「一家離散」の憂き目にあった武士たちや、「あばた」が原因で一生不縁に終わった女性たちや、失明して座頭瞽女(ごぜ)になったなど秘話悲話がある。

(2025年1月31日投稿)

 


治安維持法を最初に適用したのは「大学」「学生運動」に対してであった。

2025-01-30 11:35:16 | 共謀罪

 組織的犯罪処罰法(共謀罪)は神聖天皇主権大日本帝国下で制定された治安維持法の現代版である事を疑ってはならない。

 1925年の治安維持法制定に当たって、小川平吉司法相は貴族院で「無辜の民にまで及ぼすという如き事のないように充分研究考慮を致しました」「決して思想にまで立ち入って圧迫するとか研究に干渉するという事ではない」などとと答弁しているが、その最初の適用は、「大学」「学生運動」に対してであった。それは学連事件というもので以下紹介します。

 1925年10月、朝鮮人暴動を想定した小樽商高事件が発生したが、小樽港の朝鮮人労働者はもちろん小樽労働組合などが反対運動を始めた。全国学生社会科学連合会(学連)もこれに積極的に取り組み、各地で反軍国教育の声が高まった。その時、同志社大学構内に「狼煙はあがる。兄弟よ、この戦に参加せよ」というビラが貼られたが、これを口実に京都府警特高課が12月1日早暁、京都帝大、同志社大などの寮や下宿、自宅を襲い、学連関係者としてそれぞれ18名、11名、その他4名を検挙した。しかし、起訴可能な証拠がなかったため、7日までに全員釈放された。

 しかし、特高が寮に無断で入り、立会人なしで捜索した不法行為に憤激した京都帝大学生は14日、研究の自由、大学の独立を主張する宣言を発し、大学当局の決起を要望した。それに応えて24日、法学部教授会、経済学部教授の一部もこの事件の不法行為を攻撃し、学問研究の自由を主張する声明を発表した。

 これに対して、京都府警は学連関係学生の一斉検挙で応えたのであった。翌年1月14日には新聞発表を禁じ、翌日より4月中旬まで、学生、学者、労働組合指導者を家宅捜索し検挙した。検挙された学生は38名で、その中には、京都帝大の石田英一郎、岩田義道、太田遼一郎、鈴木安蔵、東京帝大の是枝恭二、村尾薩男、後藤寿男(林房雄)、慶応大の野呂栄太郎らがいた。また、京都帝大の河上肇、同志社の河野密、山本宣治関西学院河上丈太郎、新明正道らの教授、講師も拘引された。

 9月15日に記事が解禁され国民が真相を知った3日後の18日に予審が終結した。容疑は治安維持法、出版法違反容疑、不敬罪容疑であった。後2者は大正天皇の御大喪で特赦された。1927年4月より治安維持法による公判開始。5月30日、1名の病欠以外は全員が8カ月から1か年の禁固刑を宣告された。控訴審の途中に三・一五事件(共産党弾圧事件)が起こり、大部分が連座したため、29年12月判決の21名は一審よりも刑を加重された。

(2017年4月7日投稿)


関東大震災下「治安維持令」公布がメディアに与えた影響

2025-01-30 11:30:51 | 関東大震災

 「治安維持令」は1923年9月7日、大日本帝国憲法に定められた天皇大権の一つである緊急勅令として神聖天皇主権大日本帝国政府が公布した。

勅令「大日本帝国憲法における天皇大権に基づき、天皇の命令として国務大臣の輔弼のみにより、議会の審議を経ないで制定される立法の形式で、緊急勅令はその一つ」

 治安維持令の内容は「出版、通信その他何らの方法をもってするを問わず、暴行、騒擾その他生命、身体、若しくは財産に危害を及ぼすべき犯罪を扇動し、安寧秩序を紊乱するの目的を以て治安を害する事項を流布し、又は人心を惑乱するに目的を以て、流言浮説を為したる者は、十年以下の懲役若しくは禁固又は三千円以下の罰金に処す」というものであるが、その目的は、翌8日に警視庁が出した「治安維持に関する緊急勅令適用に関する指示」㊙によると、「今回の震災に際し、人心の不安に陥れるを奇貨として更にその不安を一層甚だしからしめ、其の間非道を逞しうせむとするを取締る事を主眼とし、主として不逞の徒治安妨害の事項を流布したる場合に限るを要す」としており、権力を批判する言論だけを取締りの対象とするというものであった。

 この勅令公布は、震災下の朝鮮人・中国人や日本人労働組合運動家などの虐殺に関して、メディアの沈黙と右傾化を生み出した。批評家・千葉亀雄は「震災後の新聞思想として著しく目についたものは、反動思想の侵入である。それは社会主義者や朝鮮人が、大災を利用して何事かを計画したという一時の蜚語から、それらを非愛国者とし、今まで相応に潜勢力をもって居た反動団体と、反動的思想が表面に現れて来たのだ。それを事実に具象した一つが甘粕大尉の大杉栄氏外二氏の殺害事件である。これに対して、東京朝日、東京日々、東京時事、読売、大阪毎日が、都下警護の重任にある一憲兵大尉が、法権を侵して私人を殺害したところの不合理を、現代文化の自由主義から堂々と主張したのに対し、反動傾向を持つ人々は、それをどこまでも非愛国精神であり、無政府主義を庇護するものとして、色々な方面から威嚇した。しかるに他の新聞沈黙し、また或る二つ三つの新聞は、明らかに軍国主義倫理を肯定すると共に、甘粕大尉の行動を国士の行為として極端に讃称した。こうした新聞界の全体に、自由思想に対する賛否の意志がだんだんとあらわになったが、それから以後、十二月二十七日の虎の門事件が勃発したために、今度は国家主義の高唱が、すべての思想の上に最も力強く響き、またひびくようになろうとして居る」(改造社編、災害誌)編と指摘している。又、同じ「改造社編、災害誌」には「甘粕事件、内鮮人殺害、自警団暴挙に関する差止事項を掲げた日刊新聞で発売頒布を禁止されたものは、寺内内閣当時の米騒動の際における処分に比すべきものと見られ、新聞紙の差押えが、1923年11月頃まで殆ど30以上に及び、一新聞紙の差押えが優に20万枚に達したものがあった」としている。

虎の門事件「摂政裕仁親王(後の昭和天皇)狙撃事件。1923年12月27日、第48帝国議会開院式に向かう途中、虎の門付近で難波大助に狙撃されたが、弾ははずれ、難波はその場で逮捕、翌年死刑。時の第2次山本内閣は引責辞職した。難波は大逆事件の真相を知り、かつ関東大震災直後の亀戸・甘粕事件など軍隊官憲などによる白色テロの激しさを見て政府権力者や反動団体に反省させ、天皇尊崇の念を打破するため天皇暗殺を企てるに至ったという。

 関東大震災下の神聖天皇主権大日本帝国政府による「白色テロ」に対して、戒厳令治安維持令などによりその真相はほとんど糾明されず、その責任も追及されずに終わったが、「日本人の良心」を示す動きはあったのか?1923年9月20日に『時事新報』『読売新聞』甘粕事件を号外で報じた。甘粕は軍法会議にかけられ懲役10年の判決を受けたが3年で出獄し、のち満州へ渡って大日本帝国政府の傀儡国満州国で暗躍した。亀戸事件は、同年10月10日、警察はそれまで被害者家族の問い合せにも真相を明かさなかったが、甘粕事件公判開始により警視庁が公表した。しかし、戒厳令下適法であると正当化した。朝鮮人大量虐殺事件については、『東京朝日新聞』『改造』『中央公論』『種蒔く人』などが抗議し、山崎今朝弥、布施辰治など自由法曹団の弁護士や、民本主義の吉野作造らが真相究明活動を行った。しかし軍隊や警察の責任はまったく不問とした。王希天など中国人殺害事件は、中国から抗議を受け、内務省当局は隠蔽を主張、同年11月7日第2次山本権兵衛内閣は「徹底的に隠蔽するの外なし」と決定し、中華民国政府からの調査団に対しても「大島事件については中国人が多数殺傷されたとの風評はあるが、事実は不明瞭調査中であると欺いた。臨時帝国議会(同年12月11日~)では永井柳太郎ほか3人らが政府の責任を追及したが、大日本帝国政府は「尚熟考の上他日御答を致す。目下取調進行中……本日はまだ其時にあらざるものと御承知を願います」とうそぶき回答を拒んだ。しかし、この議会は治安維持令を事後承諾し、1925年4月治安維持法公布を導いた。

 1924年1月に成立した清浦圭吾内閣は、「国民思想の善導」を主張し、1月15日には中央教化団体連合会を結成し、文部・内務両省の下、県庁を中核として、在郷軍人会、青年団、婦人会、宗教関係指導者を動員し、運動を展開してゆく。1月~4月にかけて、思想善導会、恢弘会、行地会、国本社などの右翼団体も結成された。国本社は山本内閣の法相であった平沼騏一郎を会長に官界、陸海軍、財界、学会の有力者を集めたが、軍人を含めた高級官僚が初めて右翼運動に乗り出したもので、日本型ファシズムの源流の一つとなった。

(2023年9月5日投稿) 


日本会議(石橋も国会議員懇談会会員)はいかに選択的夫婦別姓制度成立を妨害しているか?

2025-01-29 17:51:48 | 選択的夫婦別姓

 1996年2月、法務大臣の諮問機関である法制審議会は、希望する夫婦には結婚前の姓を称する事を認める「選択的夫婦別姓制度」導入の答申をした。法制審の提言は基本的に法制化されるのが慣例であり、民法改正の手続きへと進むものであるが、今日に至っても導入されていない。

 この原因は何か?これには、今日の自民党政権思想的宗教的源泉でもある「日本会議」(1997年5月30日)やその前身である「日本を守る国民会議」(1981年10月27日)などによる執拗で大規模な反対運動が継続して行われてきたという背景が存在するのである。

 1995年12月には、「日本を守る国民会議」などは「家族の絆を守り夫婦別姓に反対する国民委員会」(代表上智大教授渡辺昇一)を結成し、署名集め地方議会での反対決議要求国会議員への陳情活動、波状的な国民集会などを開催していた。

 答申提出後には、日本会議の代表委員となった長谷川三千子氏が日本会議の機関誌と見做してよい『祖国と青年』(1996年3月号)に、

家制度というものがかっきりあればあるほど、いろんなところで各人の不満というものは当然出てきますよね。ただ問題は、不満があったら即「ああ、不満ですか、解消しましょう」と、そういう仕方で向かうのが良いのか、不満は不満でもそれはある程度仕方のない不満だという格好で、各人が我慢しなくちゃならないのか、という事です。あんまりひどい不満だったらこれは何とかいたしましょう、でも大した事のない不満だったら我慢してください、というバランスのとれた議論というものが、殊に家族の問題に関しては非常に少なくなってしまっていますね。……今のフェミニストたちの主張の通りに、この不満も解消する、あの不満も解消するといって次々解消していくと、どういう事になるかというと、益々女性の我慢の能力というものが低下していって、今の女性が軽々こなしているような生活も、これから二、三十年先の女性になると、もう耐え難くなるかもしれませんね。そうするともうきりがないという事になる」

反対理由を述べている。

1996年5月には、橋本龍太郎首相(自民党政権)に夫婦別姓反対要望。同年12月には、夫婦別姓反対決議が281議会、同国民署名が100万人突破。

2002年3月には、夫婦別姓に反対する国会議員署名が117人、国民請願署名が170万人に達した。

2010年には、夫婦別姓法案反対運動実施。

(2022年9月4日投稿)

 

 

 

 

 

 

 


神聖天皇主権大日本帝国政府下で初の衆院選、沖縄県は1912年にやっと法施行、1946年は選出せず

2025-01-29 09:41:00 | 選挙

 朝日新聞2021年10月19日の「天声人語」に、「明治23年に実施された初めての衆院選」について、つまり神聖天皇主権大日本帝国政府下での第1回総選挙について、近年の投票実績に比して、「投票率は93%だった。女性に参政権がなく、有権者は全人口の1%という制限選挙だったが、驚きの高さだ」とあった。ところで、私としてはこの事については、もう少し別の角度からの大切な面を伝えてもらいたいものだと思った。

 この衆院選は神聖天皇主権大日本帝国政府が1889年2月に大日本帝国憲法制定とともに公布した議員法衆議院議員選挙法に基づき1890年7月に実施したものである。帝国議会(現国会)は天皇の立法権行使の協賛機関として位置づけており、貴族院・衆議院の2院制で、両院は対等(現在は衆議院優位)とした。貴族院は公族・華族・勅選議員・多額納税者からなり、解散はない。皇室を守り、民選の議員(衆院議員)を抑える役割を担った。衆議院小選挙区制直接国税(地租・所得税・営業税)15円以上の男子納入者による制限選挙で、被選挙権は満30歳以上、選挙権は満25歳以上とした。直接国税15円以上とは、農家では2町歩(約2㌶)以上の地主(当時としてはかなりの豪農)、自家営業や勤め人では年収1000円(現在では3000万円?)以上であった。また、この衆議院議員選挙法は、全国一律に施行したのではなく、北海道は1900年になるまで、沖縄県1912年になるまで施行しなかった差別行政を行った事実を伝えるべきである。このような条件により、有権者は約45万人で、全人口の約1.1%であった。この後、このような高額の税金で選挙権を買うというような制度は、さすがに批判が起こり、財産や収入に関わりなく選挙権を得る普通選挙運動が起こる。また、候補者は立候補した事を行政機関へ届ける必要はなく、「供託金」の支払い義務も選挙費用の制限もなかったが、1928(昭和3)年の男子普通選挙制(中選挙区制)から候補者は行政機関へ届け出る立候補制が実施された。

男子普通選挙法の公布は、1925年5月、第1次加藤高明・護憲三派内閣時。

供託金制度……1925(大正14)年に男子普通選挙法が制定された際、保証金を供託する制度が導入された。「候補者の乱立防止」がその理由で、貧困な労農無産政党系の人々などが立候補の制約を受けた。今日では、衆院・参院の比例代表で600万円、衆院小選挙区・参院選挙区で300万円。没収規定は、衆院小選挙区は有効投票総数の10分の1未満の得票。参院選挙区は有効投票総数を議員定数で割った数の8分の1未満。参院・衆院の比例代表は当選者の2倍を超える立候補人数分。

米国・ドイツ・イタリア・フランスをはじめ大多数の国では制度自体なし。イギリスは約6万円、カナダは約8万円、オーストラリアは約4万円。没収点も日本より低い。

ちなみに、供託金制度は法の下の平等を定めた憲法第14条や議員と選挙人の資格を「財産や収入で差別してはならない」と定めた憲法第44条に違反しているのではないだろうか。

更に付け加えておくが、1945年12月17日幣原喜重郎内閣が衆議院議員選挙法を改正公布したが、米軍政下にあった沖縄県施行の例外扱いとした。つまり、現憲法を審議した1946年の国会には沖縄県選出議員は選出せず、現行の「平和憲法は、沖縄県民を除外したうえで成立」したのである。

(2021年10月26日投稿)