※このブログは2015年12月23日に投稿したものを一部改訂して投稿したものです。というのも、朝日新聞が2017年1月25日、「夏の高校野球 100回大会から3代目」のタイトル記事を掲載し、「朝日新聞と日本高等学校野球連盟は24日、2018年夏に開催予定の第100回全国高校野球選手権記念大会に合わせ、『深紅の大優勝旗』を新調すると発表したため改めて、両者の歴史認識が戦後の国民主権日本国と敗戦までの神聖天皇主権の大日本帝国とを連続したものとして解釈している事を批判するとともに、その歴史認識や価値観を国民に洗脳するために第100回と解釈し表現する事を意図的に何度も繰り返している事を国民に気づいてもらうためです。
2017年11月24日には、大会を主催する朝日新聞と日本高野連が定めた「ありがとう 夏100回 これからも」というメッセージを、日本高野連の理事会が承認した。ここでも「100回」と主張し、「これまで高校野球を支えてくれた選手、関係者、ファンへの感謝の思いを伝える」と意味づけしているが、そこには戦後日本を大日本帝国時代と連続したものと解釈する事を当然の事とする考え方が存在している。そしてさらにメッセージには、「今後の発展をともに考えていこう」という意味も込めているとも表明しているが、このような歴史認識や価値観は、安倍自民党政権の神聖天皇制大日本帝国を美化(歴史修正主義に基づく解釈)した、「明治150年」を記念し「明治の精神を学ぶ」とするものと同根であり、日本国憲法に基づく国民主権の戦後国家体制を軽視し踏みにじる主張であり断じて認める事はできない。
安倍自民党政権という歴史修正主義者たちは、あらゆる面で自己に都合よく国民に記憶を忘却させ洗脳しようとする。だから、人権と民主主義を尊重し守ろうとする者は、再び同じ不幸な過去を繰り返さないためには、記憶を受け継ぎ、ずっと継承するという、忘却攻撃に対する闘いを続けなければならない。
◎言葉はその人の歴史認識を示しているため、注意して使用する必要がある。
2015年12月19日、高校野球100年記念として、朝日新聞後援で「第1回全国中等学校優勝野球大会再現PJ2015」が開催された。投手役は、第1回大会(1915年)が行われた豊中グラウンドのあった豊中市長の浅利敬一郎氏で、100年前の村山龍平・朝日新聞社長と同じ羽織はかま姿でマウンドに立った、という。
16年後の1931年に関東軍が「満州事変」を起こした。それをきっかけに軍部はメディアに圧力をかけ、協力を強いた。事変の翌年、朝日新聞の社長であった村山龍平が役員会議で語った言葉が残っている。「対暴力の方法なし」「不得已豹変」(やむを得ず……)。以後、朝日新聞は(ほとんどのメディアも)、軍部、政府を積極的に支持するだけでなく、国民に対して戦争協力を煽っていった。
今夏、「朝日新聞」に、「1915 球史ここに始まる」という見出しの記事が掲載されました。内容は「『夏の甲子園』と呼ばれる全国高校野球選手権大会が産声を上げ、今年で100年。『全国中等学校優勝野球大会』として大阪の豊中グランドで始まった大会は…」と書かれているのですが、この文章の表現に疑問を感じませんか?ここには日本人特有?の思考様式がみられると思います。それは「長い歴史を持つほど値打ちのあるものだ」という意識です。また、中身がそれぞれ異なるものを、同一に扱い連続したものとして表現している事です。
「全国中等学校優勝野球大会」の第1回は1915年に始まりました。そして敗戦後の1947年の第29回までその名称を使用していました。そして、1948年の第30回からは現在と同じ「全国高校野球選手権大会」の名称を使用してきました。疑問を感じてほしいのはここです。名称を変えた(中身が変わっている)のであれば、回数は第1回とすべきであると考えるのですが、そのようにせず、前回を引き継いで連続したものとして数えているのです。
この第29回と第30回の間に日本に何があったのか? 簡単に言えば、「天皇主権」の「大日本帝国憲法」が失効し、「国民主権」の「日本国憲法」が制定されて「新生日本」となったという事です。そして、この憲法の精神に基づいて、戦前のあらゆる制度が失効し、改革されたという事です。
「学校制度」もその一つです。特にこのタイトルに関係する事だけを見ると、敗戦前の「中等学校」(5年間)の生徒の在籍年齢は「12歳から17歳」です。これに対して敗戦後の「高校」(3年間)の生徒の在籍年齢は「15歳から18歳」なのです。選手の参加資格が異なっているのです。この点を考えれば、「全国中等学校優勝野球大会」と「全国高校野球選手権大会」とは別のものとして区別しなければならず、名称も回数も引き継ぐべきではないのですが、名称だけを変更し、両者を同一のものとして扱い、連続したものとして数えたのです。そして、現在もそれを踏襲しているという事です。
では、なぜこのような表現をしたのか、またするのだろうか?それは、極めて政治的な意図をもっており、為政者が日本の戦前と戦後を断絶したものとする歴史認識を受け入れていない事と、その歴史認識を敗戦後の国民にも浸透(洗脳)させるために連続して数える表現を使ったという事です。
上記の連続して数える表現に疑問を感じない人が多いが、それは多分、「長い歴史を持つほど値打ちのあるものなのだ」という価値観を刷り込まれているからではないだろうか。たとえば、かつて「皇紀2600年」という意識を刷り込まれたように。ついでにいえば、「大きい事は優れているのだ」とする価値観も刷り込まれていました。それは巨艦「戦艦大和」への意識が象徴的です。現在の日本にはほかにも、戦前と戦後を連続したものとして意識させる同様の数え方、表現がたくさん見うけられます。たとえば学校関係の広報誌で、よく「創立○○年」という表現がなされていますが、厳密に数えればすべての学校で、その年数よりもかなり短くなります。それらも、上記と同じ効果を狙ったものと思われます。しかし、その効果を生む理由には、国民自身に「長い歴史を持つほど優れている」と価値を認める意識が明治時代から刷り込まれたまま現在も根強く定着しているからです。これほど為政者にとって、現在では安倍政権にとって都合の良い事はないのです。敗戦後の自民党政権が国民に投薬した薬が効いているという事なのです。
結論として、「全国高校野球選手権大会」は「2018年夏は第71回」とするのが正しい数え方であり表現だと思います。起源をどこに求めるか、どのよう表現しているかは、その人物・組織のものの見方考え方歴史認識がどのような立場に立つものであるかをも表しているという事である。