テレビは4月18日から、退位に向けた儀式「神宮親閲の儀」に関するニュースで持ち切りである。メディア自身も常軌を逸した報道の仕方を行っているが、天皇皇后を迎える国民の興奮した状況を見ていると、現在の日本が果たして民主主義国家であると言えるのか改めて疑問を感じている。
今回の儀式においては、「剣璽動座」も行ない、新聞では、「三種の神器」の剣と璽を、そしてそれを額の高さに捧げ持つ「侍従」(国家公務員の一般職で、皇室神道の宗教儀式に従事させ政教分離原則に違反させている。侍従長の任免では天皇が認証している。すべての皇室神道の行事において公務員を当然の如く従事させるだけでなく、さらにメディアも伝えない数えきれない一般国民をも巻き込み従事させる制度を温存している。)の姿と、それと対比させて天皇をアピールする事を意図したような大きな写真を使用した記事も載せている。それも、天照大神を祀る内宮と、豊受大神を祀る外宮に参拝するその宗教行為について何の異議を唱えもせず、まるで当然の事のように。
「剣璽動座」を国民の多くは知らないのを良い事にして。「剣璽」は、天皇家では皇位の「しるし」とするものであるが、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府では、天皇が1泊以上の旅行をする時には、その「剣璽」を必ず一緒に移動をさせた事をいうのである。敗戦後の1946年4月にも、「葉山御用邸」の動座を行ったが、その後に成立した、国民主権を定める日本国憲法とそれに沿って改訂した新皇室典範にそぐわないものとして「廃止」したので上記の動座が最後となった。それを今回も実施したという事なのである。
しかし実は、日本国憲法成立後の1974年11月7、8日に実施し、復活していたのである。それは、前年に第60回式年遷宮を済ませた伊勢神宮へ、昭和天皇が参拝した時であった。
復活の背景には何があったのか。1971年4月神道青年全国協議会が、昭和天皇のヨーロッパ訪問(1971年秋に予定)の際に「剣璽動座」を要望する「上奏文」を提出したのである。これを受け伊勢神宮の地元、三重県選出・藤波孝生自民党国会議員が、衆議院議長へ「復活」に関する意見書を提出。政府の答弁書は「終戦後は各般の情勢に鑑みて動座を中止した。またその後は行幸の機会も多く(粗相があるといけないので)動座を中止した。今後においてもその事情に根本的な変化があるとは認めがたいので、剣璽の捧持を復活する事は今のところ考えられない」との事であった。しかし、第60回式年遷宮を控えて協議会が中心となって「剣璽動座」の復活運動を進めた結果、宮内庁が「今回は式年遷宮後の参拝という事で復活した。今後、戦前のように、どこへ行かれてもご動座があるという事ではない。今回はあくまでも特例だ」と決定し、上記期日に復活したのである。それを今回は当然のように実施したという事である。国会でも議論はなされていない状態である。メディアもまったく口を閉ざしている。そのため国民の多くは「剣璽動座」について適切な判断を行う力を奪われた状態に置かれ、「動座」が国民の有する権利である「信教の自由」「思想信条の自由」や国民主権の原則に反する重大な問題を持っているにもかかわらず、冷静に考える事さえできずにお祭り気分100%だけの状態となっている。
安倍自公政権が天皇を利用しているというのはもちろん明らかであり許してはならない事であるが、それだけではなく、ここには天皇(家)の憲法を無視した狡猾さや無責任という真実の姿本性がここにも表れているのである。天皇(皇室)の口にする「国民に寄り添う」という行為は、憲法の定める「国民の人権を尊重する」という事とはまったく関連性をもたないものとして行っているものであり、彼らの言行が矛盾している事は明らかである事に気づくべきである。憲法を尊重する国民は、天皇や皇族の言葉やしぐさ行為をそのまま信じて人物を評価判断してはならない。それは彼らの演技演出にすぎないと考えるべきである。
最後に、剣璽はいつもは皇居のどこに置いてあるのだろう。それは、吹上御所2階の「剣璽の間」という部屋にあり、それは天皇皇后の寝室の隣にある。剣璽の間は、部屋の中にまたもう一つの部屋があるような構造になっており、その外側の部屋はじゅうたん敷きで、内側の部屋はさらに二つに分かれており、手前は6畳ほどの畳が敷かれている。観音開きの襖を開けるとそこに「剣と璽」がそれぞれ白木案上に置かれており、常に袱紗で覆われている。剣璽がなぜ天皇の寝所と隣り合わせであるのかという事については元賞典の川出清彦が『皇室の御敬神』に「皇祖を御枕上にいただかれて皇祖と共に霊床に御寝遊ばす。そして“大君は神にしませば”の御修徳を積まされると拝される」と述べている。